【連続投稿43日目 1564投稿目】
【作成日時:4/26 ※時間測定忘れ】
4月11日に毎月の『世界は贈与でできている』(以後『贈与』)の読書会がありました。
今回の読書会で読んだ範囲に「逸脱的思考」と「求心的思考」という対となっている言葉が出てきました。
2つの言葉を簡単に説明すると、
逸脱的思考:常識や当たり前といった「枠組み」を疑うこと
求心的思考:ある事柄を常識や当たり前から考えた時に、辻褄が合わずうまく説明がつかないものについて、説明づけること
です。(※『贈与』の中では「常識」という言葉を揺るがない「根源的なもの」として用いていますが、ここでは一般的な使い方で用いています。)
読書会の時にも自分の中では2つの思考をどれほどするかというバランスが大切だろうと思いました。
4/29から昨日までの3つの言葉に対する問いも逸脱的思考と求心的思考の中でされたことです。
【なぜ「There is(are) ~.」という構文なのか】
逸脱的思考に対して考えると分かりやすいと思うのですが、固定観念のようにある部分までについては有効でしょう。
しかし根源的なことに対して逸脱的思考を働かせても、それは世界のすべてを構築し直すということにつながります。
数学でいえば「1と2の間に数はないのだろうか?」という問いは考えられるけれど、「1+1は本当に2なのだろうか?」という問いは数学の体系を構成し直すことにほかなりません。
構成し直すことができないとは言い切れませんしその人がしたいことなら適切な問いといえますが、本当にしたいことでしょうか?、ということになります。
根源的な問いが浮かんだ時に真に解明したい問いが別であるようなことが大半でしょう。
ならば問いをずらして「どうしたら今の数学で説明を付けられるだろうか?」と考えるような、求心的思考で考えた方が前進するでしょう。
ですがそこにはバランスがあり、人それぞれなのです。
「1+1は本当に2なのだろうか?」という問いを”真剣に”抱いた人がこの世界にいました。
それはトーマス・エジソンです。
エジソンは子どもの頃、人一倍「なぜ?」と疑問を発していたようです。
小学生の頃に先生に「どうして1+1が2になるのか?」と聞いて、どれだけ説明しても疑問は解消できませんでした。
そして先生も手に負えず、最終的には学校を退学することになったという話が残っています。
ですがこのような子が大人になって世界的な発明家となったのです。
ですから絶対的に無意味・無価値な逸脱的思考はないのですが、根源的なことに対してであるほどそれ相応の追究しようという覚悟が求められることでしょう。
するとその人に合った逸脱的思考と求心的思考のバランスを取ることが大切という話に戻り、どうしたら自分のバランスというのを知ることができるのかを考えることでしょう。
そしてそれはやはり自分を知るということに尽きるのでしょう。
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