【連続投稿176日目 1514投稿目】
【作成日時:3/12 15:14~16:05、51分】
先週に『世界は贈与でできている』(以後『贈与』)の読書会がありました。
せっかくですのでこれまでの読書会の振り返りも載せておきます。
【『世界は贈与でできている』のオンライン読書会に参加しました!】
今回はヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」がテーマとなっていた部分でした。
簡単に説明すると言葉や意味というのは体験があって存在するということです。
小さい子が「右」という概念を理解するのは2つある手の内の右の方、(右利きであれば)箸を持つ手といったように体験に基づいて覚えることがあるでしょう。
ほかの参加者でヘレンケラーの「水」を理解した場面を思い出した方がいましたが、まさに言語ゲームによる理解でしょう。
そして言語ゲームは個人あるいは集団ごとに言語ゲームの世界があります。
同じ言葉、たとえば「楽しい」という言葉1つとってもその人・集団で言葉の扱い方は異なります。
話のすれ違いというのはお互いの言語ゲームがちがっている、異なるルールなのに同じゲームをやっていると錯覚していることになります。
ルールを定義であったり捉え方、価値観などと言い換えることもできるでしょう。
そして言語ゲームは単語だけではなくて言語を伴って表されるものにも及びます。
ですから「手を洗う」という行為でさえ体験が言語化されているものなので言語ゲームにあります。
辞書と言語ゲームでは言葉の扱い方は全く異なるといえるのではないでしょうか。
お互いの言語ゲームが違うことを知覚した時に確認ということをするわけです。
一方、前回の投稿にも出てきた「ダブルバインド」というものは言語ゲームの確認を拒絶しているために生まれるものであるといえるでしょう。
さてこの言語ゲームがどうして『贈与』に登場するのでしょうか。
これも言語ゲームですが、一般的な「贈与」という言葉の解釈は漢字のとおり「与えること」でしょう。
ですがこの本における「贈与」は受け取る側がコトモノ以上の意味を受け取ることで生まれるものになります。
ある人から手土産を受け取った時に「自分も同じような時には手土産を持っていくことにしよう」と思ったとするとそれこそが1つの贈与となるわけです。
そして「贈与」を受け取るには知性を伴うということも書いてありました。
要するに「察しがいい」人ほど贈与が生まれるわけです。
言語ゲームもまさに同じではないでしょうか?
言語ゲームがちがっていることも気づかなければすれ違っていてもそのまま素通りすることでしょう。
それこそ「辞書の意味こそが絶対だ」と思っていたら、到底すれ違うということが理解できないでしょう。
ですが人によって異なると、知性があることで鋭敏にすれ違いをキャッチすることができるのです。
僕の場合は寺子屋塾でヴィトゲンシュタインの言語ゲームのことを多少ながらにも聞いていました。
インタビューゲームやワークショップなどにおいての対話でも言葉のズレは意識していたことだったのである程度はしっくりきました。
これもどれだけ体験しているかなのでしょう、というと体験しなければならないのかと思うかもしれませんが、本当は元から人の中に備わっていることではないかと思います。
----------------------------
今後のイベント予定
3/21(木)18:00~21:00 受験お疲れ様会 @パルル