【連続投稿53日目 1574投稿目】
【作成日時:5/12 22:32~23:28、56分】
一昨日に小中の同級生に会って公文式の話をしたことを投稿しました。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
子どもの頃は通っていて、そして今では寺子屋塾に通っていると場所が変わっていますが、どちらにも共通することは多いように思います。
特にいえるのが自学自習によって進めることでしょう。
これは同級生からも疑問に思われたことなのですが、自学自習において指導者は大事であるように考えています。
正確には、自学自習は他者が大事であり、そのうち公文式や寺子屋塾のようにどこかに属する中で取り組む場合においては指導者が大事、です。
このようなことを考えたことがない人は「自学自習は自分でするものであるはずなのに、なぜ自分ではなく指導者や他者が大事なのか?」という疑問をもつのではないでしょうか?
自学自習で進める場における指導者とはどのような存在なのでしょうか?
もし自学自習することが自分のみで完結するようであれば、そのツールさえあれば指導者は誰でもいいということになります。
本当にそうでしょうか?
だとすればものすごく多くの人が自学自習教材の指導者になろうとすることでしょう。
ですが、誰もが指導者になればツールを与えればいいだけであれば「指導者に向かない」ということはないはずです。
また生徒側の視点に立つと、おそらく公文式の教材も寺子屋塾のらくだプリントも万能の学習ツールとなり、誰もが選んでほかのツールは選ばれず消滅するでしょう(笑)
それは言い過ぎかもしれませんが、少なくともそのようなことになっている様子は感じられないでしょう。
らくだプリントを使った学習方法、「らくだメソッド」についてこのような話があることを聞いたことがあります。
らくだプリントが作られてこの教材を使用して指導することができるように教材提供されるようになったばかりの頃のことです。
作成者である平井雷太さんは上手に活用することができるのに、らくだプリントを使用している指導者の多くが平井さんのように上手くいかないとなりました。
その時に平井さんが研修として打った手は、教材の使い方についてではなく「インタビューゲーム」の実施だったのです!
このような時、大半の人が教材の使い方に目を向けるのではないでしょうか?
しかし平井さんはインタビューゲーム、つまりはコミュニケーションという人と人との関係性に焦点を当てたのです!
まさに自学自習の教材であるにも関わらず他者が大事ということを把握しているからこその手でしょう。
ではまわりくどい話はこれぐらいにして、自学自習における指導者・他者の役割という今回の話の神髄に迫りましょう。
自学自習という言葉の中に「学ぶ」「習う」という漢字が入っています。
「習う」というのは必ず「〇〇から」と習い先があるはずです。
それは本や教材からという時もありますが、師匠であったり親といった人である場合のことが多く、成熟するまでは特にでしょう。
また「学ぶ」は「真似ぶ」から来ていると言われています。
真似とはまさに人という模倣する対象があるでしょう。
その上で自分でやってみて学びます。
しかし自分だけで取り組んでいては今の自分の殻を破ることは非常に困難でしょう。
いや、自分で自分の殻を破ることができた場合も、そこにはもう一人の自分という自分であり他者である存在が顕在しているのではないかと思います。
ましてや自分以外の力で自分の殻を破るためには、他者という存在が必要なのです。
それが公文式や寺子屋塾のような場では指導者が担っているのです。
本当は一昨日に公文式についての投稿をしたので昨日にこの投稿をしたかったです。
ただ昨日はこれだけの文章を書く十分な時間が取れず1日引き伸ばしました。
ですが、昨日の夜にXでドラゴン桜2の公式アカウントが【人は一人で成長するものではないって話。】という投稿をしていたのを発見しました。
1日遅らせてよかったです。
【人は一人で成長するものではないって話。(1/7)】 pic.twitter.com/zG49lq8RTb
— ドラゴン桜2(公式) (@mita_norifusa) 2024年5月11日
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今後のイベント予定
6/9(日)10:00~17:00 経営ゲーム塾1DAY @寺子屋塾 ※経験者限定
6/16(日)13:30~17:30 インタビューゲーム会 @寺子屋塾
☆定点観測を一緒に取り組みたい人、随時募集中です(^ ^) 定点観測についてはこちらをどうぞ!
☆個別インタビューゲームについても随時募集中です!