【連続投稿109日目 1630投稿目】
【作成日時:7/6 16:43~17:17、34分】
昨日の投稿でパルルに関する話の投稿をしました。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
その投稿の最後のところで「学びのわ」の話を出しました。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
「学びのわ」がどのようなところかについてはこちらの記事にまとめています。
この学びのわについてもですが、手伝っているフリースクール、そして起業の学校で考えているこれからについても共通していることで最近よく考えていることがあります。
それは「誰もが参加できる」ということについてです。
学びのわは、今は高校生以下の参加が多いのですが、別に子どもだけではなく大人が参加しても構いません。
というより本当はこのような言い方をするのもイヤで、年齢に関係なく誰でも参加できる場としています。
それは僕が、学ぶのは子どもであるか大人であるかは全く関係なく、誰もが学んで生きている、誰もが学ばなければならない、そう考えているからです。
ですから「学びのわ」は誰もが参加していい場なのです。
しかし実際には誰もが参加するわけではないのです。
それは場所の広さといった環境の制約によることではありません。
何なら昨日の投稿でも書いたように「寄付制」であり子どもたちも来ているように、お金を支払わずとも参加できるとしてもです。
ほかについてもあります。
インタビューゲームも誰でも参加できるものですが、主催するからこそ分かりますが、やはり「この人は参加しないだろうな」という人がいます。
自分が手伝っているフリースクールについてもおそらく通える子と通えない子がいるように感じます。
定点観測会についても、まだまだ広められていないものの、興味を持つ人と持たない人がいるであろうことは感じています。
それから最近井上先生とも話したことですが、今自分が通い続けている寺子屋塾という場所についてもです。
決してそれぞれのことに参加しない人に否定的であるわけではありません。
それはあくまで「今は」であって、まだそのタイミングではないということも往々にありえるでしょうから。
「須つ(まつー条件を満たすものを待ちのぞむ)」という姿勢でいることが大切に感じています。
この「誰でもいい、けど誰でもではない」ということがあるのはいずれにも共通することがあるように思います。
それは分野・領域といった枠をもつものではないこと、それから学びを中心に据えていることです。
自分でもまだ分かっていないことばかりですが、しかしこの「誰でもいいけど誰でもというわけではない」を捉えることがカギの1つとなるような気がしています。
効率からの脱却、付加価値、形なく在るもの、価値観、自分軸、空間軸、偶発性、関係性、無限性、自分と世界の対応、境界を取り除く、非日常の日常化、あたりがキーワードであるようには感じているのですが・・・。
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