7/24から話がつながっているので今回の投稿だけでは全容をつかめない部分があるかもしれません。
特に昨日の投稿になりますが、必要に応じて昨日までの投稿も読んでみてください。
【『言葉のズレと共感幻想』読書会に参加しました(その1)】 - 気分やさんの気ままなぶろぐ
【「好き」と「得意」の関係は一意?】 - 気分やさんの気ままなぶろぐ
【大切なのはSDGsという言葉ではなく言語化までに思い描いたもの】 - 気分やさんの気ままなぶろぐ
【「心理的安全性」のことでギスギスするのは】 - 気分やさんの気ままなぶろぐ
【抽象化したはいいけど元に戻れない】 - 気分やさんの気ままなぶろぐ
昨日の話は、具体と抽象は抽象度によって階層ができているという話でした。
そしてこの層が増えてくると中間層は実態のつかみにくいものになるように思うということを書きました。
さて、この具体と抽象が世界の在り方にもつながっていると僕は思うのです。
ここからは完全な私論です。
それは「個」と「世界」の関係です。
「個」は人間もですが、それだけでなくありとあらゆる個体のことにあたります。これが「具体」に対応します。
一方の「世界」とは言葉どおりですが、この世で起こったり存在しているありとあらゆることです。これが「抽象」のてっぺんです。
そして僕がずっと抱いている問いは、世界があって個があるのか(世界→個)、それとも個があって世界があるのか(個→世界)、です。
これは「卵が先か、ニワトリが先か」の、どちらが先かなんてなくただの見方の話なのかもしれません。
ですが、見方の話だとしても世界→個か個→世界でどうやってこの世界が成り立っているのかという話が変わってくるのではないかと思うのです。
先に僕の考えている結論を言っておくと、僕は世界→個だと考えています。
第一に「世界は構成されている」のです。
「構成されている」とはシステム、数学でいえば数式になっているだけではなく、何かがあったら必ず何かが起こる、逆に起きえないことはこの世界に存在していないということです。
つまり世界は構成されているから僕たちは存在しているし、世界の中でありとあらゆることが起きているのです。ですが存在しないことは起こりません。
つまり世界→個であるというわけです。
一方、個→世界という見方はできないことはないのでしょうが、極めて扱いにくいものになると思います。
それは無限という問題です。
具体と抽象の話に戻って考えてみましょう。
具体から出発しててっぺんの最も抽象なことが何かって考えられるでしょうか?
「抽象化された!」となってもそれが真のてっぺんでない限りさらにその上の抽象化があるわけです。
どこがてっぺんなのかはっきりすることはあるのでしょうか?
これが無限であるということです。
すると世界という全体を見定めることは非常に難解であることのように思います。
それが世界→個であれば世界にとにかく天井はあるんだ、有限なんだと定義(数学的には「公理」)しているのでまだ全容を考えやすくなると考えています。
が、世界→個に無限が絡んでいないかというとこちらにも出てきます。
世界→個だとしても結局世界を解明するには個からたどることになるでしょう。
つまりは具体を抽象化させていくということにあたります。
そこで僕自身の具体と抽象の課題を思い出しましょう。
何だったかというと抽象から具体に戻ることができないという課題で、その理由は抽象の中間層が膨大になって、実態がつかみにくくなったことでした。
実は始点と終点は決まったものとなっていてもその間に無限が実在しているのです。
数学でこんな話があります。
0と1の間には無数の数が存在していて、0と1を間で切って、それをさらに間で切って、それをさらに・・・、と限りなく切り分け続けられるという話です。
(詳しく知りたい人は「デデキント切断」で調べてみてください。僕でも大学数学は挫折したので厳密には理解しきれていませんが・・・。)
話を戻して、個と世界の間には無限に層があるというわけです。
この有限と無限という話からできる話がほかにもあるのですが、とりあえず今回はこれで一区切りとしようと思います。
こういったような話が僕が世界は数学でできていると思っていることにあたるのです。
あと最後に『言葉のズレと共同幻想』に折り返すという見方が出てくるのですが、これが0というものなので、最後にその話をしてこのシリーズを終えようと思います。