気分やさんの気ままなブログ

【自由を保障するということ】

計算プリント「らくだプリント」を毎日やっています。やり始めてから100日以上経っていますがとうとうあることをしたのでした。それは「やらない」という選択です。その日は朝から夜まで予定が入っていました。過去2回同じように予定が入っていてやれなさそうなことがありました。しかも夜にはお酒を飲んで。それでもその2回とも飲んで帰ってきてからプリントをこなしたのでした。今回も外で飲んできて、そして帰ってきてそれからやろうと思えばやれはしました。しかしやらないことにしました。理由としては2つあります。1つは飲んだ後の状態を自覚しているから、もう1つは「やらなくてもいい」からです。

前者は過去2回の飲んだ後にプリントをやった時の経験からです。以前にも投稿したことがありますが、プリント1枚のうちの半分くらいまでは過度にミスを気にすることがなくなるというリミッターが外れたようになりシラフの時よりもむしろ調子がいいです。が、それ以降は逆に頭が回りすぎるようになり、質の悪い思考をしてしまうようになってしまうのです。毎日2枚やっているので1枚半その悪い状態でやることになるので、このようなことを自覚した時にもうやめようと思ったのでした。

 もう1つの理由はどういうことかというと、このプリントは宿題ではあるのですが学校で出されるようなマストの課題ではないからです。自分の意思で決めればいいものだからです。しかしながらそれでも過去2回なんとしてでもやったというのは、プライドもありはしましたが、それ以上にまだ自分の心の中に与えられているものという気持ちがあったからでしょう。今回、ようやくそれを捨て去ることができたのです。

 

 自分がこのようにやってきたから分かることですが、何かに縛られている人に対して自由を保障させるということはとても難解なことです。自由を保障させるには相手に自由な条件を「与える」ことはもちろん必要ではあるのですが、相手自身にその来たる時が来るまで「待つ」ことも必要でしょう。