気分やさんの気ままなブログ

【「贈与」を経営ゲームから考える】

【連続投稿129日目 1467投稿目】

【作成日時:1/25 13:14~13:42、23:09~23:31、50分】

 

 昨日は『世界は贈与でできている』の読書会の振り返りを書きました。

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

今回は第3章についてを扱っていましたが、そういえば第2章の部分で考えた話がありました。

 

 第2章は貧困問題に取り組む活動家の湯浅誠の『反貧困』に書かれている実話の引用から始まります。

どのような話かというと、54歳の男性は幼い頃から父親から「他人様に迷惑をかけてはいけない」と教えられて育ってきました。

しかしその男性の父親は他界し、母親は認知症になり、その影響で仕事を続けられなくなりました。

失業給付は受けられたものの生活保護は受けられず、失業給付が残りわずかとなり家賃を払えなくなりました。

その時に男性は、他人様には迷惑をかけられない、もう死ぬしかない、と観念したという話です。

 

 ここで登場するのが「交換の論理」という話です。

「割に合うかどうか」という観点のみにもとづいて物事の正否を判断する思考法です。

要するに「助けてあげる。で、あなたは私に何してくれるの?」です。

つまり上の話の場合は「迷惑をかけてはならない」という前提と困窮の状態からあげられるものがない、ゆえに他者から助けを受けるわけにはいかないから死ぬしかないということになってしまったのです。

このように「交換の論理」での営みに縛られてあげられるものがない状態になるとその人は周囲から孤立した状態になります。

逆に「交換の論理」に捉われていない状態、つまりあげられるものの有無に関係なく人とのつながりをもつことができるのが「贈与」のやり取りでもあります。

 

 その「交換の論理」と「贈与」の状態の違いが経営ゲームでも説明できると思いました。

経営ゲームの中でも子ども向けの「黒猫タロウの屋台屋本舗」は個人で進めるものです。

するとほかのプレーヤーとのお金のやり取りは起こりません。

ですので元より孤立状態となっていて、お金がなくなれば倒産を免れることはできない、いわばもう死ぬしかありません。

一方で大人向けの経営ゲームでは複数人で一緒にやることができ、その場合プレーヤー間でお金の貸し借りができます。

そこに利子をつけることもできますが、しないことも可能です。

するとたとえ自分のお金がなくなったとしても相手から借りることで生きながらえることもできるのです。

このようなことは「交換の論理」では説明がつかないこともあるように思います。

 

 最初の「交換の論理」に関する引用は極端な例ではありますが、そこから生きるとはどういうことか考えることができるようにも思います。

そして経営ゲームをやってみるとそれが体感できるとも感じています。