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【作成日時:1/24 17:22~18:43、81分】
もう2週間前になりますが、今月も『世界は贈与でできている』(『贈与』)の読書会がありました。
前回は読書会の様子を紹介しましたが、今回は僕が今回の部分を読んで考えたことを書こうと思います。
今回は第3章を読み進めたのですが、『贈与』を読んでから年賀状といえばこの本が思い浮かぶようになって、年賀状を受け取ることについての話がこの章に書かれていたりします。
ざっくり紹介すると、年賀状を思わぬ人から送られてくると「申し訳ないなぁ、送り返さないとなぁ」とどこか妙な気分になるものだという話です。
こういったようなことを贈与が「呪い」となると紹介しています。
この章の途中から「ダブルバインド」という状況が紹介されることになります。
「ダブルバインド」というのは「相矛盾するメッセージによる束縛」にあたることです。
例えばメールのやり取りで、相手から送られてきた文章の終わりに
返信は不要です。
と書かれていたとします。
するとこれは「返信するものである」というものでありながら「返信しなくていいです」という2つのメッセージが内在しているのです。
よって受け取った人はこの文章を見た時に、これは返信しようかしないか、と考えることが生じます。
しかもこれに「答え」は存在しない上に、相手に「返信はいらないのですか?」と聞くのも変な話です。
この部分を読んで考えるようになったことが大きく2つあります。
1つは自分が送っていることがダブルバインドでないかを気にするようになたことです。
僕が何も悪意がない、ましてや善意で送っているつもりのことが自分の知らないところで相手を悩み苦しませているようでしたら相手に対して申し訳ないですし。
しかし一方でしばらく考え続けて、考えても仕方のないことなのだろうとも思いました。
なぜならダブルバインドも含まれるこの贈与は、受け取られることで生まれるものだからです。
つまりは受け取り手によることであり、どの程度ダブルバインドに悩み苦しむかはその人次第でしかないのです。
そしてダブルバインドとして受け取った場合に限らず、言葉の受け取り方は自分と相手の関係性によって変化するはずです。
であればダブルバインドとして受け取ったとしてもダブルバインドの誤解を正すことができるはずなのです。
そのためには時間の幅を広く捉えることが大切となるでしょうが。
ということで僕が僕自身から与えられてしまっていた「ダブルバインドを送ることに悩む」というダブルバインドは折り合いがつけられたのではないでしょうか。
もう1つダブルバインドの話を読んで考えたのは、この『贈与』という本は下手したら危険な本にもなりえるのではないかということです。
「贈与」というものがいかなるものか、どのような作用を人に及ぼすのかを書いているわけですが、この章では「呪い」という「贈与」の負の側面を紹介しています。
ということは、この本を読んだ人がダブルバインドというものを理解して、ダブルバインドとなるメッセージを考案し、メッセージの送り手として相手にダブルバインドメッセージを送り続けることを想像してみてください。
相手は知らず知らずのうちに精神の健康を損ない、精神的に追い込ませることができうるのです。
ちなみに僕もかなり危険なことを今書き起こしているということも自覚しつつ書いています。
ですがそれをフィクションながらにも形にしたのが「PSYCHO-PASS」というアニメだと思っています。
この読書会の主催者もPSYCHO-PASSが好きで、今回の意見交流の中でも話題に挙がったのですが、僕はまたその人とは別の視点で見出したことになります。
いやぁ、第1期で槙島聖護という悪役が出てくるのですが、そのことは人を理解しているからこその所業であり、さらには聖書などあらゆる本を踏まえて考えを話しているのです。
そう、彼の名台詞の一つは「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない。」でした。
そんなことを思いながら参加していた読書会でした。