毎月開催されている『言葉のズレと共感幻想』の読書会に今月も参加しました。
今回はどの主催者・参加者とも初めましての方という方も参加されていて、この読書会のみんなで輪読した後に意見交流するというやり方はいいものだなと改めて思いました。
僕自身は既にひと通り読み終えていて、このブログでも何度もこの本を紹介してもいます。
ですが読み終えてからはしばらく空いていたので、そんなことも書いてあったな、そういえばブログでこんなことをアウトプットしていたなと思い出しました。
前に読んだ時には着目していなかった部分にも意識が向きました。
ほかの参加者がいることで一層のことですね。
そして明日から紹介しようと思っている、最近読み終えた『数学する人生』という本の内容とも重なる部分が多くありました。
読書会の中で盛り上がった話の中で特におもしろいなと思ったのが「不惑」という言葉についてです。
本の中では「不惑」の意味は惑わなくなることとして扱われていて、対談者の佐渡島さんは年齢を重ねるにつれて言葉の意味から体感としての理解が伴ってきたといいます。
30歳の頃には言葉としての理解だったのが40歳には自身の身の振り方が不惑になったようです。
しかし参加者として入っていた寺子屋塾の井上先生から「不惑」は境界がないという意味の説もあるということを紹介されました。
「惑」の上の部分は「域」のつくりと同じであり境界という意味をあらわす、つまり「不惑」は境界をもたない、ということでした。
僕がどうしてこの話が印象的だったかというと2つあって、1つは世の中のあらゆることには境界があるようで実はないことが多いように感じています。
そして境界があると思い込みを抱いているとなんかうまくいかない、逆に境界を取り払える見方ができると考え方が柔軟に自由になり合点がいくものが多い、という自分の感覚に合ったからです。
そしてもう1つは、先日受けてきた「zoneコーディネーター養成講座」に関してのことです。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
講座では地域ということにフォーカスを当てられていました。
この時の最後に思ったのは、自分の理念には地域のような枠があらず今回のフィールドが地域だったということにほかならない、それに対して講座は地域という境界がありその内と外という見方が内在しているということでした。
それは僕からすると違和感に近いものでした。
何かこの違和感の正体と井上先生の言う「不惑」は大きく関係している気がしたのでした。
それとこれも「不惑」といえることかもしれません。
それは本で紹介されている具体と抽象の図に対してのことです。
本の中での対談者の細谷さんは具体と抽象の関係を三角形の上下の具体・抽象の変化で表現しています。
僕もこの関係を知った時にはとても衝撃を受けて、それ以来具体・抽象さについてはこの図を踏まえて考えるようになりました。
しかしいつしかこの図にちょっとした不完全さを感じるようになりました。
それは抽象度が最も高いところというのはこのように狭くなっていくのかです。
そこから思うようになったのがこんな感じです。
つまり三角形であるというのはあくまで個数の話であって、含んでいる要素は抽象度のレベルは変わっても不変であるということです。
なので僕にはこの図に書き加えて、抽象であるというのは境界も実体もないもやがかったものであるがゆえに広がりをもつ、すると全体は円柱をなしているように見えるのです。
これを読書会の中でほかの人にも共有したら思いのほかささったようで僕としては意外でした。
ただここで参加者の1人から、ということは最も抽象な部分の広がりは具体よりも広がっていますか、と質問されました。
僕としては上も下も違いはないから円柱になると思っていたのですが、それにしても自分の中ではまだその問いを消化しきれた気がしなかったのです。
だからこそ見出せてアップデートしたのがこれだったのです。
円柱の外にも世界があるということです。
円柱の内部は人が認識できる世界です。
しかしこの世界には人の理解の範疇を超えたものも多くあるでしょう。
紫外線、赤外線みたいなものです。
だから人の認識できる円柱よりも外の世界も存在しているのです、人には認識できないですが。
すると先ほどの質問であった抽象の方が広いのではないかということに対しても、具体も含めて人に認識できない広がりがあるということがいえるのです。
そしてこの図と考え方がまさに「不惑」となったように思いませんか?
そういった考えを普段からしているわけで、このブログの随所にちりばめられています。
そこでブログに対しての感想が得られればいいのですが、やっぱりコメントがもらえることは少ないのですよね(^ ^;)
それがこの読書会という機会でリアルタイムで考えに対しての感想や反応をもらえるのは本当にありがたい場です。
返ってきた反応といえば、具体・抽象の見方を発言した時に数学的思考ができるってすごいみたいな声も聞こえましたが、これって言うほど「数学的」なのか?、とか。
(このトリックも言葉のズレですが)
あともう1つ、二項対立ではなく3つものを置いて考えるという話もあって、これも書きたいのですが、これについてはまたいずれ書こうと思います。
実は今回の読書会以前から井上先生と話をしたことでもあり、その頃から書こうと思っていたことだったりします。