5/3に寺子屋デイがあり、インタビューゲームを行いました。
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僕はファシリテーターだったのでインタビューゲーム自体はやらずじまいとなってしまったのですが、参加した人から個別でやりたいとお願いを受けました。
その方は普段は奈良にいる方だったので、オンラインでのインタビューゲームをやりました。
オンラインでやったのは3年ぶりぐらいでした。
相手の方の感想を紹介します。
私が、注意書の「事実」を「リアリティ」とすり替えて受け止めていたこと、インタビューゲームに「傾聴モデル」をいつの間にか当てはめていたことに気づきました。
インタビューゲームに私が抱いていた枠を一つはずすことができたような気がしています。
この後に僕が考えたことも書きますが、相手の方にとってインパクトを与えたインタビューゲームになったようで、枠を作りだしていたことを思われたようです。
それでは僕の考えたことを3つ書きます。
時間軸と空間軸
相手にインタビューをすると相手の人の価値観を探ろうとするためにだんだん時をさかのぼっていくことがあります。
今回の僕の相手へのインタビューもそのように進んでいきました。
ただ、20分間の残り3分ぐらいになってもまださかのぼって話を聞きたいとさえ思ってしまったほどだったのですね。
その人がどれだけ生きてきているかという数字的な大小の差異もあるとは言えますが、ある地点とある地点の間にも出来事はあるのですから、そういう意味ではキリがありません。
そして今までに出てきたことをどうまとめようかと思い悩みました。
そう思った時に出てきたのが時間軸と空間軸でした。
インタビューで目指すところは相手の価値観で、その価値観を今までの人生を積み重ねてきて形成してきたものだと思っているから時間軸という見方でその時々のことを追ったのだといえるでしょう。
そしてインタビューをしたことをまとめる時に、その時間軸を紡ぐことはできるもののその際限ないものを圧縮するようなことになる感じになんか微妙だと思ったのでした。
ですが、価値観というものの見方は「時間軸」のみしかないでしょうか?
価値観の出どころはもちろんですがその人自身のはずです。
ではその人の「いまここ」を中心に添えて同心円を描くようにして価値観というものを作りだしていくことはできないでしょうか?
それが僕が思う「空間軸」です。
もっともこれは寺子屋塾で吉本隆明さんが時間軸と空間軸でものごとをとらえているということを聞いたことが大いに影響しているのですけどね。
ですが時間軸で聞いたので、聞いたことをそのまま空間軸に写すことはできないものです。
空間軸でまとめるには、相手の人の話だけでなく、その人の言葉選び、今この場で話して見えた価値観を僕の主観でまとめるほかありませんでした。
実際に、その紹介文は僕が今までに書いたものの中で一番短いものになりました。
さらにはメモした内容の1割が紹介文の中に入っているかぐらいです。
事実については一切入っていない、本当に主観100%の他己紹介文となりました。
かくして、いつか自分がやりたいと思った他己紹介文づくりになったのでした。
ですがそれがうまくいったかというと、相手の方はしっくり来たわけではありませんでした。
ですが、このように書いてもいいのだと衝撃を与えたことにはなったのでした。
インタビューの紹介文を書くことについては
相手になりきって自己紹介文を書きましょう。しかし「相手になりきって」といっても限界があります。聞いていない話も書くなど、編集者の主観で書いて構いません。
明らかに事実と異なる部分や書き間違いのみを訂正します
とあります。
これをどう解釈するかによると思うのですが、「しなければならない」ことは一切ないのですから。
思いどおりにはいったとはいえませんが、1つ試すことができたのはよかったなと思います。
他者によって自分が知らない部分を知ると、誰も知らない自分の部分が新しく生まれる
ジョハリの窓というものがあります。自己について、自分が分かっているかどうかと他者が分かっているかどうかの2×2の4つの領域に分割したという見方です。
このジョハリの窓をインタビューゲームに当てはめると、インタビューされるということが盲点の窓、それから秘密の窓を広げることになることは安易に想像できるでしょう。
そうなることで未知の窓の領域も自分の認識に入ってくることになるわけです。
ですが振り返りの時に相手から出てきた考えはさらに進んだものといえるのではないでしょうか。
それは今までに見えなかった自分を知ることで未知の窓の部分が増えるということです。
それを聞いた時に、そういうことも起きているのかと思ったのでした。
新たな自分の一面を知るということは新しい見方ができたわけです。
しかし新しい見方ができるということは同時に新しい問いも生み出すことができるようになるのです。
その問いはまだ見出せていない自分、未知の窓の自分に直結するのです。
こう思うと、自己理解には際限がないですし、それ即ちコミュニケーションにも際限がないことがいえてくることでしょう。
ちょうど寺子屋デイの実施に合わせて寺子屋塾の井上先生もジョハリの窓のことを書かれているので紹介しておきます。
言葉とは編集された空虚な記号
僕が書いた相手の方の紹介文の中に「行動」という言葉を使っていました。
3回使っていたのですが、実のところ言いたいことをピッタリと表す言葉が思い浮かばず、時間もあるのでやむなく当てた言葉だったのでした。
その言葉が気になったのは自分だけでなく相手の人もだったのでした。
何か適した言葉はないだろうかと相手の人も考えてみて「選択」という言葉を提案してくれたのですが、やっぱりしっくりくるまでにはなりませんでした。
ですがこうなるのは何らおかしいことではないのです。
そもそもがしっくりくるものであったとしても、湧きおこった感情を言葉というものに当てているのです。
その時点でそのままのものではなくなり、編集がかかっているのです。
そしてさらには読み手の人が受け取るため、受け取った言葉に意味付けをすることで言葉に意味が生まれるのです。
これは数学のことですが、高校時代に数学の先生が数学の文字について「文字は空虚な場所」だと言っていました。
それは数に限られますが、決まったものではなく扱う人が当てはめるものであるということで考えれば同じことだといえるでしょう。
久しぶりにオンラインでやったので、いつもと感覚が違った部分もありましたが、だからこそ対面でやることを考えられるのでいいものに思います。
それに物理的な距離という問題を取り払うことができるのはやはりありがたいです。