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【数学の本質にふれている本】

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itasan-kibunyasan.hatenablog.com

 

 この投稿をした頃に読み終わっていましたが、今回改めて書きまとめるためにもう1度要所を読み返しました。

主に3部構成で、最初が数学に対しての著者の考え方、次が当時(1980年頃)の日本の数学教育への意見が書かれています。

そして最後が著者が1950年頃から20年近く外国の大学に通っていた時の話が書かれていてまとめられています。

 

 最初の数学についての話のところでは、僕がこの本を買った決め手である「数覚」が紹介されています。

「数覚」という言葉は辞書に載っているわけではなく著者の造語です。

僕も数学を学んだり実生活で吸収・応用するにあたって大きく関係があるのがこの「数覚」にあると考えています。

では「数覚」がどのようなものかというと、感覚的なものということもあって著者も「説明しがたいもの」と言わざるを得ないほどですが、

 

数学を理解するということは数学的現象を「見る」ことであろう。
ここで「見る」といったのは、目で見るのとは違うけれど、ある種の感覚によって近くすることであろう。

 

この際に機能している感覚のことを「数覚」と呼んでいます。

並列的にここで同時に例を挙げているのが初めて行き着いた地での方向感覚で、どちらも論理的推察能力などとは異なった純粋な感覚であるわけです。

「数学のセンス」と言われるものもこの数覚によるところなわけです。
この数覚というものは先天的に備わっているものであるために個人差はあるものであるのも事実です。

では生まれつき備わっていない人は諦めるしかないかというとそうではなく、

 

数学を習得するには、毎日長い時間をかけて繰り返し練習をすることが必要であると思う。

これによって数学的事実を把握する感覚が発達するのである。

 

と述べているように、努力によって後天的に高められるものでもあります。

これについてはまさに僕自身が証明であると言いたいです。

このことが2000年より前に唱えられていながら同じようなことが述べられているのが『ドラゴン桜』しか見つからないぐらいなので驚きものです。

 

 次には30年ぐらい前の当時の日本の教育全般と数学教育を批判しています。

30年も前になるので今とでは教育の在り方や行われ方が違っているのも事実です。

しかしこの時点で学力の低下や日本の将来を不安視しているわけですが、理由は初等・中等教育での早くからの教えすぎを指摘しています。

その年齢に適した内容以上に教え込みすぎていてゆとりがなくなっているのではと提唱しています。

教育史からみるとこの後にゆとり教育がはじまるわけで、それも成功と世間で言われることはなく、もし原因が考える必要があった適齢を無視したがゆえだったとしたら滑稽なものです。

この本を読んでみると各教科の内容をばっさばっさと斬っていて、僕にはそれほどの見識がないのでそれについては何とも言えないのですが、大切な意見ではあるかなと思います。

この意見は30年前のことながら、教育の複雑化はこの頃から結局今日まで続いていることになります。

そのため、是非は別として、今の教育に一石を投じる意見としては非常に価値があると思いました。学校関係者にはぜひこの部分は読んでもらいたいです。

ちなみに数学教育についての批判は同感で、今の数学教育は計算練習を軽視しすぎているなと感じます。

 

 そして最後に著者の海外生活の様子が書かれています。

著者・小平邦彦さんは東大で数学の研究をしていた人ですが、戦後にアメリカの大学に入学し、1954年に数学最高峰の賞であるフィールズ賞を受賞した実績を持つ人です。

それだけ実績のある人だと堅実な人のように思ったのですが、タイトルに「怠け」とあるように堅実さとは離れているようでした。

このあたりはさらっと目を通した程度にしか読んでいませんが、戦後間もない上に敗戦国の人であるのに楽しそうな生活を送っている様子なのがイメージにギャップがありました。

しかしながら、小平さんも含め活躍している数学者の多くが自然や自然体を大切にしているのは何かあるのでしょうね。

読み進めていて僕もこういう力感のない生活にうらやましく思いました。