気分やさんの気ままなブログ

【集金している場面で】

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 職場での飲み会のことでした。自分が幹事というわけではなかったのですが、集金の様子を見ていて千円札が大量だったので1つだけですが1万円札に両替しようと思いました。

ですが、そんなことしなくていいよと言われてしまいました。

 

 かさばるから、お店の人のことを考えてでもあるけど、本人も大変だからなぁって思ってのことだったのですが。

 

 

 こういう時に替えようと思うのって自分だけなのだろうか?・・・

【内臓思考で捉える教員の勤務問題】

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 ようやくこの話も今日で終わりになります。書いていてもやはり考えさせられることがたくさんあり、普段の投稿より大変に感じました。

 今回初めての方は最初はこちらからどうぞ↓

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

 

 今回は大脳思考型と内臓思考型の思考回路の違いを書きたいと思います。従来の大脳思考での考え方は、本に書かれていた原文のまま紹介すると、

 

従来の「大脳思考」ではまず、その問題、あるいは原因を詳細に分析するでしょう。そして分析結果に対して足りないものを補足していく、という順番になります

 

と書かれています。この手順になじみある人が多いのではないかと思います。僕にしても、これまでこのようにして考えてきたことは何度もありました。

 

 だからこそ、これでいけないのかと思う人もいるかと思います。これでも解決する時は解決するのだろうと思います。

しかし、この方法の問題点は、表面的な対処法を選択してしまうというところにあります。

いやー、学校で働いているからこそこれの最たる悪例が思い浮かんでいるんですよね。

それは何かというと「ノー残業デー」です。学校現場の教職員に月に1回課されているものです。

このことに対する不満の声は調べれば容易に出てくるでしょう。勤務時間を減らされても仕事量は結局減らないから無意味だと。

まさに表面的な対処法になっていると言えるのではないでしょうか。

 

では内臓思考で問題解決法を構築していくとはいかようなものなのか?それは本当の欲求という土台を作ってから論理を構築するということです。

前回までの話にも合ったように内臓思考からの大脳思考を活用させるわけです。

 さっきの「ノー残業デー」問題の話。あれは上が手を打たなければいけないと思っての、どこの場所に対しても万能にできる策ということで掲げたものだったのではないでしょうか?

 しかし、そもそも上が手を打たなければならないのでしょうか?このトップダウン型の形態こそが引き起こしている問題なのではと思ったのです。

上の人たちの「本当の欲求」ってなんなのでしょうかね?

それよりも、各現場で内臓思考で腹をわって本心で話し合って現場の欲求から策を練った方が効果は必ずあると思います。時間がないのであればそこから話し合うことが必要ですね。

 

 

 それから、「自然と人間が一体であることを忘れていしまっている」と書いてあり共感した話も書きたかったところですが時間も時間なので以前に書いたことを張って締めようと思います。

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

【子どもの頃が大切なのでは】

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 今回が『グズな大脳思考 デキる内臓思考』の第4章です。途中からよりは順に折った方がいいのでリンクも張っておきます。

 

1つ目

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

2つ目

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

3つ目

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

 

 今回は内容をそのまま紹介するより書かれたことに関連して思ったことを書こうと思います。

 

 この章の話の1つに子どもが出てきます。そこで考えてもらいたいのが、子どもってもともとは内臓思考していませんか?

だってうれしかったら笑い、おなかが減ったり自分によろしくないことがあれば泣きます。それって感じたことをそのままに、できる表現でアピールしているのですから。

 それがやがて脳が発達して言葉を獲得し考えることを獲得し、論理的思考力を獲得していくわけです。大脳思考が入ってくるわけです。

 論理的思考でもある大脳思考は必要にはなるでしょう。でなければ赤ちゃんのままなので。

 ところが問題となるのは、学校に行くようになってからは論理的思考こそが大切だと大脳思考を与え続けられることです。

そのため内臓思考と大脳思考のバランスが崩れて大脳思考に偏るということになってしまうのではないでしょうか。

昨日も書いたように、内臓思考から出発して、大脳思考は思考増幅の機能となるべきなのですから。

 ですので僕が崩れる時だと感じている中学3年生・高校生からこの話を知るべきだと思っています。

 

 もう1つは「フロー状態」とか「ゾーンに入る」というものです。ブログを始める以前にツイッターFacebookで書いたことがあった気がします。

 この本では、壮子の寓話でフロー状態を「感覚や知識は働くのをやめ、心が思いのままに動く」状態だとあること、禅において主客一体(我を忘れ行為に深く入り込む)であることと紹介されています。

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 スポーツでは「ゾーン」とよく言われるのですが、おそらく自分も中学の時に1度だけ入ったことがあります。

バレーボールでボールが見えていなかったにもかかわらずどこに来ても受けることができた時があったのです。

 本に書かれていたことではないのですが、僕はフロー状態やゾーンとは、普段は独立あるいは連動している内臓思考と大脳思考、つまりは心と身体と脳が一体になることなのではないかと思います。

つまり感じたと共に大脳でも思考するという人間離れした境地に入るということです。

 ただ、どうすればそうなるかは分からないですけどね。意識している限りは無理でしょう(笑)

【内臓思考の真髄へ】

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 この内臓思考・大脳思考の話も一昨日から始まり、昨日、そして今日で3/5です。ようやく内臓思考の真髄に迫っていきます。

 

 思考の話をする前に簡単に身体の起源を紹介します。細胞の始まりから次のような流れで身体は作られていったそうです。

 

腸(内臓)→脳幹→大脳旧皮質→大脳新皮質

 

このように内臓が先に生まれてその後に脳は生まれているのです。つまり脳は元々は内臓のはたらきを補完するために生まれたものなのです。

脳幹・大脳旧皮質というのは「内臓脳」とも呼ばれ、内臓に近い部類のようです。一方、よく思考する部位として知られている大脳新皮質とはまさに「大脳思考」を作り出している器官です。

 この身体の発達を理解すると、なんとなく字面から内臓思考が大切なのだと思えてくるのではないでしょうか?

 

 

 では、その内臓思考はどうやって身につけられるか?それは「体験」です。体験を通して身体で感じる(体得する)ものこそが「内臓思考」なのだと書かれています。

 なので、一昨日に書いたような感覚では不十分といったのは、言葉にされる前の感じたそのものこそが内臓思考だからです。言葉で思考するものではないのです。

 

 それを理解した上でここからは内臓思考は感覚によるものと見ていきましょう。

 

 その言葉ですが、言葉というものは人類特有の大脳新皮質によって獲得できたものになります。

 しかし身体の生まれは最初に書いたように大脳新皮質より内臓が先なのです。

ということは内臓思考である感覚が先にあり、その上で大脳思考によって生まれる言葉で補完する、という関係であるのが節理に合っているわけです。

言葉にすることにいくら力を入れても、内臓思考から出発していないものは本質をおさえられていないことになるのです。

ですが逆に言えば、一昨日は敵に回っていた大脳思考も、正しく使えれば大きな力になるということでもあるのです。

 

 さて、内臓思考こそが人間の「本能」という話も書いてありました。

ほかの動物の例が載っていたのですが、ホヤは必要でなくなれば食糧として脳を食べるそうです。

それから、オスライオンは種の繁栄のために、メスライオンに子育てをさせないように子どもを殺してしまうそうです。

 2つとも大脳思考の源である大脳新皮質はないわけですから内臓こそが本能を生み出していると考えられるわけです。

 

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 決して彼らのことを認めるわけではないことを理解いただいた上で聞いてほしいです。ここで思ったのが、人殺しするような犯罪者はある意味で内臓思考のままに行動した結果なのではないかと思ったのです。考えてみればホヤやライオンの話と近いものがあるでしょう。

これは空想にすぎませんが、犯罪心理として、他者が生きていることが、恐怖をも含めて自分にとって不利益を被る存在だからなのではないかと思ったのでした。

無差別殺人の際に聞く言い分で「誰でもいいから殺したかった」という言葉を聞きます。

もしそれが内臓思考から由来するものだとすれば、この言い分は何も嘘偽りない発言だと言えるのです。そしてそれ以上の表現もそこには存在しないのです。

 

 

 ・・・まぁ、空想に過ぎないんですけどね。体験すれば内臓思考で共感できるのかもしれませんが、もちろん人道に反していることなのですることも決してないですから。

【自然は自然以外の何物でもないのだろう】

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 さて昨日の投稿の続きで第2章の話になります。

しかしここで困ったことに、この部分では学術的な話を引用して書かれているため、ここに書いても伝わるかというところです。

それどころか僕自身も読んで理解が追いつかないことでもあります。

そういった事情もあるので、結論的な部分だけ紹介しようと思います。

 

 大きなトピックは2つです。1つ目は学習についてです。この本には

 

学習とは「自然にできている」状態になること

 

と述べています。

 これを読んで共感したことがあります。それは普段やっているらくだプリントを終わってから書く振り返りにも「自然にできる」という言葉を用いているのです。それはこの本を読む以前からのことでした。

 しかしながら、この「自然にできている」も抽象的な感覚由来の表現です。らくだプリントのことで他の人から「自然にできているとはどのようなことか」と訊かれたことがあります。

その時は「考えることなくスラスラできること」と説明したと思います。しかし、いま改めて考えてみると「自然にできている」はこれ以上言い換えることができないものなのかもしれません。

 それに著者の「自然にできている」と僕の「自然にできている」は同じ表現であり異なった感覚かもしれません。

 ただ、「大脳思考は学習の初段階に過ぎない」ということにも僕は共感できました。

この本に挙げられていた話ですが、自転車に乗る時に交互にペダルをこぐとか右に曲がるために体重を右にかけるとか考えながら乗っていないですよね。

 

 もう1つは「潜在意識」というものについてです。これともう1つ「顕在意識」が紹介されています。

 顕在意識は日常的な意識、あるいはいつも意識にあることではないけど時々その都度意識するようなものです。

一方の潜在意識とは無意識レベルのものだと紹介されています。意識がないのです。つまりはこの本は無意識をいかにして引き出すかという話になっていきます。

しかし、無意識を引き出して意識できるものにするなんて矛盾めいた話ですよね。

 

 でも僕は大脳思考から内臓思考に切り替わったという時に感じた感覚がありました。それは三次元の世界から四次元の世界を見るという感覚です。

 本当に経験したわけではないですが、「超立方体」という四次元世界の立方体の様子を説明している動画がありました。それ自体は理解できていません(笑)

 なのですが大脳思考から内臓思考に変わった時に感じた感覚がまさに「超立方体」の動きのようなものだったのです。ぐおーんと三次元の物理法則を無視してやってきたという感じ。

 

 

 そういうよく分からないものながら人に宿っている内臓思考の正体に迫るのが次の章になるわけです。

 

 

 そういえば、マンガの『BLEACH』の斬魄刀・斬月を見つけたこのシーンみたいなものかも。無数に散らばっているどの刀も本物でなく、心?体?から斬月を引き抜き出したシーン。

 

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【大脳思考さん、とりあえずは敵役に回っていただけませんか?】

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 今日から5回にわたって、ようやく読み終わった『グズな大脳思考 デキる内臓思考』という本を僕なりに紹介しようと思います。

第1章では大脳思考のもとである「論理的思考」の危険な面を挙げています。

 

 

 この本の最初の導入でこのようなことが書かれています。

 

私たちの社会は、脳を最重視しています。そして、脳の力を測るバロメーターとして「論理(ロジック)」があります。(中略)

現代の社会で、「論理」は教育の要になっています。

 

ここは別にそれほど変な話でもないし悪いことでもないと思います。

そして論理的思考に“偏っている”場合を「大脳思考」と表現しています。

 このように“偏っている”のが問題なのであり、この先に出てくる内臓思考にも論理的思考が不要というわけではありません。

ちなみに「内臓思考」は3章でようやくでてくるのであしからず。

 

 では大脳思考に偏って論理的思考が強くなると問題なのはなぜでしょう?それは本質から遠ざかるからです。

簡単な例は「マジカルバナナ」ゲームです。「〇〇といったら△△」「△△といったら□□」と順に連想するゲームです。さて、5つ後に出たことと元のことは関係あることでしょうか?

これは極端な例ですが、同じようなことが論理的思考には起きうるのです。それでもズレが生じなかった時、それは内臓思考を使えていて大脳思考に偏っていない時でしょう。

 

 さて話題を変えて世の中には自己啓発本みたいな「こうすればうまくいく」という本が出回っています。しかし、それをそのまま実践して成功するでしょうか?

成功したら苦労しませんね、誰でも買います(笑)

では何が原因で成功しないのでしょうか?やはりズレがあるからです。そして2つズレが隠れています。

 

 1つは著者と読者の間に生まれるものです。成功者はその人独自の捉え方(=感覚・リンク)があるのです。成功した瞬間に生まれた感覚も含まれているでしょう。

仮置きで「感覚」を「内臓思考」としておきましょう。さて、感覚は一人一人異なるものなのに同様にできるでしょうか?

 もう1つは筆者と著書の間に生まれるものです。感覚を言葉でそのまま表現できるでしょうか?

そう、そこに言葉で現れた感覚はもう言葉と大脳思考によって不要な加工がされてしまっているのです。

 ゆえに「感覚」では内臓思考の説明としては不十分なのです。だから先ほど内臓思考を仮置きとしたわけです。

 

 

 そういえば最近こんなことがありました。目の前でキャリーケースが倒れました。

その瞬間、手は拾おうと伸びました。しかし次の瞬間には体は避けてしまったのです。

その時、体がまさに大脳思考に支配されたと感じました。結局拾うことができませんでした。

ただし、この一連の考えが実は大脳思考に支配されていることなのかもしれません。

 

 

 つまりはこの本のことを書いていること自体も大脳思考を受けている部分もあるでしょう。そうなってくると意味はあるのかという思いもしなくはないです。

 ですが、自分の数学を教える時のことも同じですが、ズレが生じることを前提としたうえで感覚を掘り下げて切り拓くことに挑戦することはきっと意味があるのではないかと思います。

いい自己啓発本とは、まさに著者が己の内臓思考に挑戦した集大成なのかもしれません。

【カメラを使ってみて感じたこと】

 昨日、撮影した写真を投稿しましたが、撮っていた時のことを振り返ってみます。昨日の投稿の続きといったところです。

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

 

 昨日1日撮り続けてみての率直な感想は、やはりカメラってすごいなということです。カメラに備わっている魅力です。

スマホだと最初に取り出す必要があったりしっかり撮ろうという気持ちになれなかったりしたことがカメラを買った理由の1つでした。

そして思っていた通りこの2つが今回解消できて今まで多く撮るくせがあまりなかった自分が積極的に撮ることになりました。

 

 それから、今まで以上に構図にこだわりました。構図についてはスマホでも意識はできることです。むしろ一眼レフの方はグリッド線が表示されてないので難しいです。

にもかかわらず一層意識が強かったのです。いいもので撮るからこそいい写真を撮りたいと思ったからなのかもしれません。

 

 そしてもう1つ。ただ、カメラで撮るようになっただけのはずなのに、なぜかあらゆるものが普段より美しく思えたのでした。写真映えするいいものはないかと思いながら見ていたから、それだけなのだろうか?いや、そうなのだろうか?

 

 一方で、頭で考えながら設定をしてしまっています。

今回自分で設定もしてみたF値シャッタースピード・ISO値がそれぞれどういうものか?、数値を大きくするとどう撮れるか?を頭で考えていたのです。

理想は、自然に撮る、言い換えると「心で撮る」ようにしたいのです。そのためにはもっと撮り続けていく必要があると実感しました。

 

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【一眼レフデビュー!】

 昨日買った一眼レフでさっそく、イベントに行った東京で撮ってきました!

 

 とりあえずF値シャッタースピード、ISO値、シーン、エフェクトには手を出してみました。

いい感じのものから失敗作までいろいろですがその一部を。

 

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 ビデオカメラで1番よく使っていたホワイトバランスを活用したいな。

それとこれだけではできないことも分かりました。早々にレンズを買う可能性あり←

【(おそらく)今年1番の贅沢】

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 とうとう買ってしまいました。一眼レフカメラです。

Nikon D7500を買いました。

 

 サイズもコンパクトで手にフィットもしたエントリーモデルから入ることも考えました。

ですが、このサイズでも思ったよりしっかり持てたのでこっちも悪くないと候補になったのでした。

そして、決め手は設定が手元のボタンでできること!カメラとなると触る設定も多くメニューを開いてというのは手間に思ったのでした。撮りながら調節することもあるだろうし。

まあどこで何が変えられるかを覚えないといけないというのもあるのですが・・・。

 

買ってから思った以上に荷物になるな~とも感じたのですが、それをまかなうだけのものになることでしょう。

【お酒と内臓思考・大脳思考】

 だいぶ前のこの投稿でも触れたのですが、お酒を飲むとなかなか寝付けないことがあります。

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

アルコールには覚醒作用があると言われていますね。それにコーヒーのカフェインにも。コーヒーも夜に飲むことは控えているほどです。覚醒作用を強く受ける体質なのでしょうか。

 

 さて、お酒を飲んだ時の話ですが覚醒するのは何かというと思考なんですよね。酔っている自分でも頭がデラクソ回りやがるという感覚をよく自覚しています。

ただ、普段と酔っている状態の違いはこの思考の質がいいものかどうか自分で判断できない部分だと思っています。酔っている弊害だな(笑)

 

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 しかし、この質というのは最近ハマっている内臓思考・大脳思考のバランスから来るものなのではないかと思っているところです。