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【大脳思考さん、とりあえずは敵役に回っていただけませんか?】

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 今日から5回にわたって、ようやく読み終わった『グズな大脳思考 デキる内臓思考』という本を僕なりに紹介しようと思います。

第1章では大脳思考のもとである「論理的思考」の危険な面を挙げています。

 

 

 この本の最初の導入でこのようなことが書かれています。

 

私たちの社会は、脳を最重視しています。そして、脳の力を測るバロメーターとして「論理(ロジック)」があります。(中略)

現代の社会で、「論理」は教育の要になっています。

 

ここは別にそれほど変な話でもないし悪いことでもないと思います。

そして論理的思考に“偏っている”場合を「大脳思考」と表現しています。

 このように“偏っている”のが問題なのであり、この先に出てくる内臓思考にも論理的思考が不要というわけではありません。

ちなみに「内臓思考」は3章でようやくでてくるのであしからず。

 

 では大脳思考に偏って論理的思考が強くなると問題なのはなぜでしょう?それは本質から遠ざかるからです。

簡単な例は「マジカルバナナ」ゲームです。「〇〇といったら△△」「△△といったら□□」と順に連想するゲームです。さて、5つ後に出たことと元のことは関係あることでしょうか?

これは極端な例ですが、同じようなことが論理的思考には起きうるのです。それでもズレが生じなかった時、それは内臓思考を使えていて大脳思考に偏っていない時でしょう。

 

 さて話題を変えて世の中には自己啓発本みたいな「こうすればうまくいく」という本が出回っています。しかし、それをそのまま実践して成功するでしょうか?

成功したら苦労しませんね、誰でも買います(笑)

では何が原因で成功しないのでしょうか?やはりズレがあるからです。そして2つズレが隠れています。

 

 1つは著者と読者の間に生まれるものです。成功者はその人独自の捉え方(=感覚・リンク)があるのです。成功した瞬間に生まれた感覚も含まれているでしょう。

仮置きで「感覚」を「内臓思考」としておきましょう。さて、感覚は一人一人異なるものなのに同様にできるでしょうか?

 もう1つは筆者と著書の間に生まれるものです。感覚を言葉でそのまま表現できるでしょうか?

そう、そこに言葉で現れた感覚はもう言葉と大脳思考によって不要な加工がされてしまっているのです。

 ゆえに「感覚」では内臓思考の説明としては不十分なのです。だから先ほど内臓思考を仮置きとしたわけです。

 

 

 そういえば最近こんなことがありました。目の前でキャリーケースが倒れました。

その瞬間、手は拾おうと伸びました。しかし次の瞬間には体は避けてしまったのです。

その時、体がまさに大脳思考に支配されたと感じました。結局拾うことができませんでした。

ただし、この一連の考えが実は大脳思考に支配されていることなのかもしれません。

 

 

 つまりはこの本のことを書いていること自体も大脳思考を受けている部分もあるでしょう。そうなってくると意味はあるのかという思いもしなくはないです。

 ですが、自分の数学を教える時のことも同じですが、ズレが生じることを前提としたうえで感覚を掘り下げて切り拓くことに挑戦することはきっと意味があるのではないかと思います。

いい自己啓発本とは、まさに著者が己の内臓思考に挑戦した集大成なのかもしれません。