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【人が兼ね備えている能力から考える人間と自然の関係】

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 昨日から書きはじめた羽生善治さん著『決断力』の感想です。昨日の投稿では、決断力は自己の中にあるものという考え方から環境によって引き出されるものという考え方をするようになったということ、それから行動には3つのレベルがあり、ものごとの流れを汲み取り身を委ねることができれば決断の手前のものである「選択」というレベル以下にできるということを書きました。

 

 しかし、このような考えをもった上でさらに読み進めると「選択」までのことではできないことがありました。流れができていれば流れに乗ることができます。ですが流れができていないもの、新しいことに対してはそれができません。そのような状況にこそ真に必要なのが自己の力「決断力」なのでしょう。ですが新しいことも全くの無から生まれているわけではないと思います。何かしらのきっかけはもうできているのです。流れに沿って進んでいるとヒビが入っている壁があるのです。そしてその向こうに新しいことがあるのです。そして壁にヒビが入っていることに気づけばそのヒビに合わせて力を加えて壊してやればよく、決断するにしても力を過剰にかけずに済むのです。決断がなかなかできないのはその環境にヒビに気づいていないがゆえに壊すのが大変だと思うからなのではないでしょうか?そして壊して新しく生まれた道に沿って新しい流れが生まれていくのだと思います。本の中に「スクラップ・アンド・ビルド」という言葉が使われていて、この言葉が表さんとすることはまさにこのようなことな気がします。ですから流れや環境をいかに敏感に感知できるかが決断、というよりも行動するコツなのだと考えさせられたのでした。

 ここまで考えた時に、確かにあの羽生さんが決断というものを自己を中心にして捉えているなんて考えていることはないよな、そもそも自分の周りの環境や流れを大切にしている人だもんな、と思った次第です。

 さて、選択や決断の流れや環境を人が何で感知したのか、それは「直感(直観)」でした。しかしその直感という琴線を揺さぶるものは環境であるということを忘れてはいけません。直感は人からでなく環境から始まっているのです。

 もう1つ人が持っている別の要素を考えてみましょう。人にはどれだけ深く考えられる状態になっているかという「集中力」があります。集中することで決断や選択といった行動の類の自然な流れが感じられるようになるのだと思います。この集中力についてが読み返すこととなった第3章に書かれているのですが、もうお分かりかもしれませんが、これも根源は人にではなく環境にあると考えられるのではないでしょうか?羽生さんは対局中の調子について対局相手が好調だとそれが自分にも乗り移って調子が良くなると感じています。同じように集中力も、例えば日が差していないか、その場が心地いいか、というように環境によって左右されるものなのです。そしてそこにいる人たちが何をしているか、静かで落ち着いているか、というように人さえも環境の要素の1つになるのです。集中力は環境に溶け込んでいき高まるものなのではないでしょうか?そういう意味では、羽生さんも言っていたことですが、突如として一気に集中するということはできないのだと思います。それから集中するためにも準備というものはすごく大切なのだと考えが結びつきました。準備を怠れば遅かれ早かれそちらの方に気が向いてしまう余計な自己が生まれてしまい流れや環境を捉える状態になることができていないのです。むしろ漏れなく準備することはその環境を広く見渡せているということでもあり、準備しようとしていること自体が集中することや決断・選択といった行動することにつながっているのです。それにしてもここまで考えた時に、羽生さんは調子を自然の流れに身を任せているというわけですが、それはとてもすごいことなのだとより一層感じられました。

 他にもこの本の中に人が備えているものとして精神力や思考力、体力、根気、才能、学力といった要素が書かれていましたがこれらも環境から生まれるものといえるような気がします。

 さて、このように考えた時に人間というのは果たして自然から乖離している存在なのでしょうか?これにはいろいろな考え方があるでしょうが、僕は人は自然の一部だと思えました。人間が自然の一部だから他の人から影響を受けるのです。人の心や思考回路といった「人間の本質」は自然から発生していると言えるのではないでしょうか?

 

 こうして読み詰まった3章までを解読することができたのですが・・・。明日の投稿に続きます。