【連続投稿14日目 1535投稿目】
【作成日時:4/3 17:02~18:22、80分 ※別ごとしながら 】
パルルでの活動である「学びのわ」でのこと。
先週は今月から高校1年生になる2人が学校から春休みの宿題が出されたので持ってきていました。
高校入学恒例の春休みの宿題から学力テストの流れですね。
2人は別の高校に進んだのでもらった宿題は異なります。
ですが2人とも共通した行動を取りました。
それは課題がどれだけあるかと終わりを確認したことです。
この時にふと、なぜ2人とも課題の終わりを気にしたのだろうと、疑問が生まれました。
ここからは推測での話になりますが、4つのことを思いました。
1つ目は取り組むことへの集中力があまりなくなってしまっていることです。
これは簡単な話で、取り組むことに集中していたらひたすら取り組み続けているはずだということです。
集中力が落ちるから別のことに意識が向かいます。
2つ目は「終わり」を知りたいのではないかと思いました。
人は予測できない先のこと、未来に対して不安になることがよくあります。
今回でいえば、この課題がちゃんと終えられるだろうかという不安です。
そして3つ目は、終わりが「遠いもの」であることです。
目の前のことであったりすぐに終わるようなことであれば、終わりを気にすることはないかと思います。
しかしながらこの「遠いもの」であることは、終わりを確認する前に分かっていることなのではないでしょうか。
にもかかわらず終わりを確認しているのです。
そして終わりを確認しても遠いものであることには変わりませんから落ち込みます。
それは無意識レベルで語れば、遠いものであることを認めたくない、自分の手中に収めたい、けれども無意識での遠いものという知覚を意識なものに引き上げただけになってしまうのではないでしょうか。
分かりにくい話になってきましたが、結局は自覚していなかった「遠いもの」であることを、終わりを見たことで「遠いもの」と自覚したこととなったのです。
ある意味、確認するという行為は達成されたのです。
ですが返ってきたことは自分の願望とは真逆のことなので、落ち込むことになるのです。
気は晴れません。
ですから確認した後にペースが上がるかというと、実際も上がりませんでした。
そろそろ4つ目の推測に移りましょう。
4つ目のこれが一番の前提になるのでしょうが、やりきりたいと思っているということです。
やりきりたいから「遠いもの」でなくしたい、そのために終わりを把握しようとするというわけです。
本当にやりきろうとさえしていない人ならば、課題をほったらかしておくことでしょう(笑)
ほったらかす前に終わりを確認するでしょうか?
僕もその場面を見た時にはなぜだろうかという疑問が生まれただけで、この投稿を書きながらひも解きました。
じっくり見つめてみたからこそここまでのことを考えることができました。
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