気分やさんの気ままなブログ

【「読む」ということ】

 個別で受け持っている家庭教師の時間の一場面でのこと。

彼には家庭教師がない日にも自分で手製の数学の宿題プリントを渡しています。

各プリントで基本的には計算問題といったような基本問題となっています。

ただ、単元の最初などで新しい用語が出てくる時には、言葉を理解するためにも用語の穴埋めが問題の最初に作ってあります。

 

 家庭教師の日に宿題を確認してみると用語の穴埋めを答えていなければ丸つけ・直しもやっておらず、その下の基本問題からやっているのです。

分からなかったとしても丸つけ・直しはするはずです。

さて、どうしてこのようなことが起こるでしょうか?

まぁ1つは僕の力不足で、用語を理解することの大切さを伝えられていないことでしょう。

ですが僕がその時に思ったことは「読む」ということをしていないということです。

まず考えてみてください。問題の前には日付を各欄もあります。用語の問題は最初にあります。

目に入ることがなかったということはあるでしょうか?

一切目に入らなかった、なんてことはないでしょう。

これは前提ですが、「読む」には目に入って存在を認識しなければなりません。

では目に入って存在を認識すれば「読む」ということをしたことになるでしょうか?

ここに数学、いや文章題とかうっかりミスの話に限らず聞かれたことを理解するという広くに関係していることがあるでしょう。

「読む」という行為は存在を認識した上で意識してその文章を観察することです。

書かれたものに目を通すという受け身ではなく、何がどのように書かれているか観察するという能動的であってようやく「読む」ということをしているといえるのではないでしょうか。

 

 数学というごく狭い範囲でいえば、そもそも数学に言語性が含まれているという議論はここではおいておいて、文章題に限らず授業でやっている時にはできるけどテストではできないということが起きている要因の1つは「読む」ということにあるのではないでしょうか?