今日書く話は、昨日の投稿『世界は贈与でできている(以後『贈与』)』のことに関することでもありながら、上の寺子屋塾のブログを読んでいる時に思ったことになります。
特に
・自分の背丈がよくわかってる人ほど、
足りないものを吸収して成長し続ける
・脳はけっこういい加減なつくりだから
自分を過信しない姿勢は大切だ
・知りたいことややりたいことが
まだたくさんあるという余白を作っておくこと
→脳の可塑性に着目
の部分についてのことです。
これを読んで考えたことが、しばしば寺子屋塾で語られる「内臓思考と大脳思考」の関係と『贈与』での「贈与と偽善」の関係です。
それぞれについて整理しておきましょう。
まず「内臓思考と大脳思考」についてですが、詳しくはこちらの投稿を見てもらえたらと思いますが、
内臓思考:体験を通して身体で感じる(体得する)もの
大脳思考:論理的思考に“偏っている”もの(分かりやすく言えば頭で考えること)
ということを指します。
『数学する人生』の投稿でいうところの「感覚(のうちの無意識なもの)」「情」にあたるのが内臓思考、「知」「意(のうちの認知している部分)」にあたるのが大脳思考だといえるかと思います。
次に「贈与と偽善」については昨日の投稿にも書きましたが少し補足を加えつつ再掲しますと、
贈与:お金で買うことのできないもの(人からのプレゼント、商品価値を超えた「余剰」を帯びているもの)およびその移動
偽善:計算可能な贈与(それは贈与ではないが)、純粋な善意による一方的な贈与であると装うこと
になります。
さてこの3つの話がどのように関係しているかというと、僕は3つに共通点を見出したからです。
それは好ましいものが促進すると、同時にそれがもう一方のものにも変わり促進することになり、そして好ましい方の成長がだんだん気づきにくいものになっていくことです。
内臓思考であったものを認識するとそれはもう大脳思考へと変わり、その次からは大脳思考としての活用となります。
同様に贈与をしたこと・されたことを一種の成功体験として次に転用しようとするとそれは偽善となることでしょう。
こういった関係になっていると気づいた時にふと思い出したのが「血界戦線」というアニメです。
このアニメの中に「プロスフェア」というゲームが出てきます。
このゲームがどのようなルールなのか細部までは僕も把握していないのです。
簡単にいえばチェスのようなゲームながら、ゲームが進むにつれて駒が進化したり盤面が拡大されるなどしていくので複雑になり難しくなっていくというものです。
まさに内臓思考や贈与が成長という進化を成していく様相と同じだと見れるのではないかと思ったのでした。
贈与と偽善にについてはまだ『贈与』を途中までしか読んでいないのでその先に糸口が書かれているかもしれません。
逆に書かれていれば内臓思考と大脳思考に対する糸口ともなることでしょう。
ゲームが進んでいくほどベットが大きくなっていくようなことで、つまりは危険性というか行き詰まりに遭うとドロップアウトみたいなことも起こりうるかもしれません。
このジレンマを抱えたシステムに抜け道があればいいものですが・・・。
それは仮にあったとしても人が認識できない世界にあるものだったりするような気がしています。