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昨日は岡潔について書かれた著書『数学する人生』を紹介しました。
今日は本の内容に踏み込もうと思います。
この本はいろんな書物や講義録からまとめられていて、同じような話が何度も書かれていることもあります。
特によく出てくる話が「情・情緒」についてです。
先に言っておきますと、おそらくここから先のことはただ言葉を追うようでは分からないものとなるのではないかと思います。
それは明日にこの本のことで書こうと思っている俳句を味わうことにも通ずる話になります。
言葉として切り取ってしまうと言葉に乗っていた思いや景観といったような肝心なこと=情が抜け落ちてしまいますから。
知、情、意というものについて一度考えてみましょう。まず「知」ですが、知は常に心があるかといったら、そうではなくて、あったりなかったりします。意志はもっと、働いたり働かなかったりします。しかし、情は常にあります。心がまるっきりからっぽというときはありませんね。
情は常に働いていて、知とか意とかはときに現れる現象だから、情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には「情的にわかる」ということがあるのです。(中略)わからないものに関心を集めているときには既に、情的にはわかっているのです。
人と人が言葉を交わすと、話が通じる。なぜそんなことができるかというと、はじめから情が通じ合っているからでしょう。(中略)言葉はごく粗いけれど、心というのは非常にきめ細かなものですから。
心がわかり合うというときの「わかる」は、口ではいえないような、意識を通して見ることのできないような「わかる」です。(中略)
情的にわかっていることを知的にわかるように表現していくのです。
二つの個(個人の中核)が一つになると、どの一つにもないものが出るのである。
松なら末、竹なら竹という、個々の情を私は情緒といっている。いつのほどにか、「情」と「情緒」を、こんなふうに使い分けているのです。
生きるとはどういうことだろうか、と思った。(中略)
満目ただ冬枯れている中に、緑の大根畑だけが生きていた。(中略)アッこれだと思った。この緑の大根畑は「情緒」である。「頬が生き生きしている」「日々生きがいを感じる」ーみな情緒が生きているのである。
私たちが緑陰をみているとき、私たちはめいめいそこに一つの自分の情緒を見ているのです。(中略)だから他のこころがわかるためにも、自分のこころがわかるためにも、「情緒」がよくわかると非常によいのである。
たとえば、すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それはじっさいにあると見るのは実在感として見る見方です。
これらに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。(中略)
ところが、なぜ、いいなあと感じるのかだれにもわかりません。ですから、すみれの花を情緒と見たばあいこの情緒は一つの先験観念です。
さて情・情緒についての記述を抜粋しましたが、わかりましたでしょうか?
これを人に説明するために僕が言葉を選び直し再編集するというのは違うなと思ったので抜粋した次第です。
おそらく情をなしに知識や意志をもってして読み解こうとするならばわからない話と思うことでしょう。
しかし情をもって読めばわからなくてもわかるのです。わかっているのです。
ここに私見を重ねるのは蛇足にも思うのですがあえて書きます。
知・情・意という見方で考えた時、この3つは別のものだということがわかっているかどうかが大切ではないかと思います。
特に意志と情緒がちがうものだということです。
意志はわかっていなくても情緒ではわかっている、情緒と意志が反発するということがあるでしょう。
自分で正解を見出せていないようでも自分の中に正解はある、精神が病むというようなこともあるしょう。
その正解は知識でも意志でもなく、情の世界にあるということも。
そしてもっと深く考えて知りたいと思ったのは情は人に限らずあらゆるものに宿っているということです。
すると本の中でも書かれているようにこころ(=情)の中に自然があるという、固定観念がひっくりがえるような包含関係を見出すことにもなるのでしょうね。
この知・情・意に加えて感覚も入って人は生きています。
この感覚というものが知・情・意をつなげているように感じますが、逆に区別することを難しくもしているでしょう。
岡潔は本の中でこの「情」にあたる言葉が西欧にはないということも書いていますが、それが表れているものの1つであるという俳句についてを明日は紹介しようと思います。
その部分を読んで日本も捨てたものではないと久しぶりに思えた気がします。