気分やさんの気ままなブログ

【自分が大切にしたいことが表れてくる】

 先月も個別形式のインタビューゲームのガイド役を受け持ちましたが、先週にもガイド役をしました。

今回インタビューゲームをやった人は、僕も含めて共通の知り合いでしたし、誰から学びを得ているかということについても共通していて、何かと近しい関係同士でした。

一見、近しい人とやってどこまで価値があるのか、と思う人もいるかもしれません。

しかしやってみると、相手の知らない部分があったという振り返りもありました。

僕としても知らない人とだけでなく知っている人とやることでインタビューゲームの神髄が見えてくるものではないかと思っています。

 

 それではお二人の感想を紹介します。

 

第一に、とてもおもしろかったです。インタビューそのものもそうですが、それを経た上での振り返り、そこから更に問いや疑問が広がっていくという一連のプロセスが非常に興味深いものでした。人の発した言葉を自分なりにかみくだいて解釈するというのは、人と関わっていく上で重要なスキルだなと感じたと同時に、相手の言葉そのまんまそのものを尊重して大事にするということも必要だということを、「言葉に権利はあるか?」の問いで気づかされました。この相反する2つのバランスを上手く保つことこそが、インタビューゲームのだいごみだと、思います。(Sさん)

インタビューゲームへの参加も回数が重なり、自分の細かな振る舞いや、インタビューゲームの仕組みそのものにも意識が向くようになっていたように感じる。振り返りでは、インタビューゲームと日常的なコミュニケーションの関連性について、話題が広がっていた。非日常から日常に生かすという文脈では、体験学習的な知見やメソッドが流用できるのではないかと感じた。(Kさん)

 

このような感想を書いてもらいました。

驚くことに最初の感想の人、初めてである上に実は高校生です。プロセスを観察するようになるまでには段階があると言われます。

この後の振り返りにも出てきますが、最初の頃の僕はプロセスをつかもうにもつかめませんでした。

 

 さて、それでは僕も考えたことを書こうと思います。

 

僕がインタビューゲームで昔から意識し続けているテーマ

 数か月前のことですが、インプロ(即興演劇)の披露やワークショップをされている方がブログにてある記事を書かれていました。

それはインプロにおいてその人が大切にしていることでした。

それを引用しつつ参加者にお伝えしたことがあるので抜粋して紹介します。

インプロは明らかに得体の知れないものなので、インプロを実施するということ自体にリスクが伴うと思う。一方で、このリスクこそがインプロの価値であると思うし、いかにこのリスクを扱っていくのかが鍵になると思う。

(中略)大体の人にとって「即興」だけでも嫌だし、「演劇」だけでも嫌なものである。それなのにそれら二つがガッチャンコして「即興演劇」だなんて最悪の言葉の組み合わせである。だからこそ、インプロのワークショップをやりますよと聞かされてくる人たちは言い知れぬ恐怖感と、何をやらされるのだろうという不安感を強く抱いてくる。この恐怖感と不安感を感じているということが重要なスタートラインである。なぜならインプロで扱いたい問いは、「なぜ私たちは即興で何かを表現することに恐怖感と不安感を抱くようになったのか」ということだからだ。

私たちはオギャアと生まれた瞬間から即興が怖いわけではない。というかその頃に即興と即興でないものとの区別はついていないことだろう。しかし、成長していくにつれ、ある一定の価値観・経験・学習を経て、私たちは即興することが怖くなる。あるいは即興ばかりしていてはダメだぞという圧力がかかってくるようになる。つまり即興ばかりしていいると、危険な目に遭うかもしれないし、人を傷つけるかもしれないし、効率的で合理的な行動選択からどんどん遠のいていくかもしれない。そんなフラフラ、ふわふわした状態ではいけないよというのが成長するにつれて社会から、大人から伝えられる。これが即興から見た教育の一側面だ。(中略)

すなわち、「即興が怖い・特別なものだ」というのは学習の結果であるということだ。学習の結果である以上、「即興が怖くない・特別なものではない」ということもまた学習可能だ。
このように、インプロには「即興は学習できる」という前提がある。

引用:ほりこーき True Dure 34 : インプロ・ワークショップをやるときに考えていること

note.com

 

この文章を読んだ時、僕も今ではこうしてインタビューゲームを開く側にもなっていますが、自分自身がやった時にどうであったかは忘れてはならないことだと思いました。そしてだからこそ参加者の目線に立つこともできるのだと思いました。

僕が最初にインタビューゲームをやった時のことは今でも覚えています。僕のインタビューゲームへのスタートラインは「自由と制約」だったのではないかと考えています。今でもこの意識はあり続けています。おかげでインタビューゲームのファシリテーターも務められるようになりましたし、日常にも活きていると実感するまでになりました。日常レベルで活きるようになったのは、(中略)インタビューゲームを通して「なぜインタビューゲームが日常のコミュニケーションを見直すワークショップとして成り立っているのか」という問いをもったからのように思います。

入り口というのは人によって違うでしょうし、違っていいことでしょう。

ただ、入り口は非常に大切なものであり、そこから問いが深まり、自分が何をインタビューゲーム、さらには生きるにあたって大切にしているかが明らかになってくるのでしょう。

次に書くことにもつながっていることでもあるので。

 

相手になりきる=相手が使った言葉を用いる?

 「言葉」という単語に「権利」という単語が結びつくことに(表現のあやだったとしても)おもしろい表現だなと思いました。

なぜこのような話が出るかというと、他己紹介文を書くにあたって「相手になりきって」という文言がルールにあることからの話になります。

すると相手になりきるためにはインタビューした時に相手が使った言葉で書くことではないかと出てきたのです。

しかし一方で、だが相手がどうしてその言葉を使うのか分からない状態で使うのも違うのではないか、という意見も出るのです。

僕も何度も突き当たっている問いで、今後も改めて考えることもある気がします。

ただ今僕が思っていることとしては、結局自分自身が何を大切にしたいかがすべてであるのだろうということです。

 

インタビューしているうちに、しようと思っていた質問を忘れること

 いろんな場合があるとは思うのですが、これを質問しようと思っていても、相手の話を聞いているうちにその質問を忘れてしまうことがあります。

今回やっていてそのようなことがあったとのことでした。

僕もあるなぁ~と思いながら聞いていた一方で、忘れた際に変わったこともあると思いました。

それは忘れたことに対して思い出そうとしたり、忘れた自分を責めたりするかどうかです。

かつては肝心な質問だったはずと思い出そうとして知らず知らず時間を使っていたということがあったり、自分を責めて結果意識が相手ではなく自分に向いてしまうということがありました。

ですが今は割り切って、というか何も気にせずその時に思い浮かんでいる質問をします。

それは忘れた質問を考えたのは自分は自分でも過去の自分だと思うようになっているからだと思います。

コミュニケーションというのはその瞬間瞬間で展開されていくものですからね。

 

 

 どこか今回は、ほかの人がやっている様子をみて、自分ではないから違う体験であるはずなのにまるで過去の自分を見ていたようにも思えていました。