もう先週のことになりますが、5/28にインタビューゲーム会を開催しました。
それも今回は場所を変えて、知り合いが大曽根でやっているシェアハウスでやりました。
どうして大曽根のここでやりたいと思ったかを書き出すとそれだけで記事1つになってしまうことでしょう。
ざっくり言えば、純粋に僕自身がやってみたいと思ったことと、大曽根やこのシェアハウスの場所の価値を知って考える機会を与えたかったこと、人のつながり的な部分も含めて生み出されるものが何かないかと期待していること、でしょうか。
結果的に参加者は3人で、うち2人はこのシェアハウスに住んでいる人でした。
ちなみに参加者が奇数となったので、僕もプレイヤーとして入りました。
ファシリテーターもやりつつプレイヤーとして入るのはかなり久しぶりで、過去に1度しかなかったような気がしています。
ではそろそろ今回のインタビューゲーム会をふり返っていきましょう。
まずは参加者の感想からです。
・この回の目的の一つに「相手の価値観を深掘る」ということがあると思いますが、今回やってみて、自分は相手の価値観を見えていない(見せてくれない?)と思っていても、相手は見せたつもりになっていることもあって、人を知るって難しいなと思いました。
・インタビューを終えた後のふりかえりが一番楽しい。実際に相手がどう思っていたのか、今どのように感じていたのかを知ることができると、自分の身の振り方も考えられるし、より相手への理解を深めることへもつながる。
・この言葉(←どんなときの自分も自分だなと思い、生きるのがラクになった)や板倉さんの思いは、今の自分の想い「もっと自分をうけれたい」「どんなときの自分も自分だなと思いたい」「ラクに生きたい」とぴったり重なるものでした。それぞれの唯一無二の価値観、感想に触れることができて、自分の世界(ものの見方、考え方、解釈)が広がったと感じました。
3人のうち1人はインタビューゲームが初めてでした。しかしながらその人のインタビューしている様子からは初めてだとは思えませんでした。
また、ペアがよく知り合っている人同士になったのですが、普段とはちがったコミュニケーションができたと思ってもらえました。
よく知っている(つもりの)人同士でのインタビューゲームというのもおもしろいでしょうね。
続きまして僕の振り返りを書こうと思います。
インタビューゲームに正解はない
今月から経営ゲーム塾でも個人で行なうインタビューゲーム会でもそれぞれ毎回、何かしら僕の考えていることをまとめた「おみやげ」をお渡しすることにしてみました。
今回は現在立教大学に在籍して人材開発・組織開発の研究をされている中原淳先生が書かれているブログを読んだ時に考えたことを、そのブログを引用して書きました。
ぜひこちらをご覧になってから読んでもらえたらと思います。
NAKAHARA-LAB 「わたしの仕事は「答えがないことを教えること」である!?」
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/15055
コミュニケーションを扱ったものであるインタビューゲームにも答えがないものであるということは理解しやすいのではないでしょうか。
ゆえに最初に書いたような「目的は何ですか?」や「(ルールに関して)〇〇はしていいのですか?(いけないのですか?)」といったような正しいことを求めるような問いはお門違いであると思うのです。
正しい答えというようなものがあったのであればコミュニケーションの問題はすでに解決されているはずですから。
だからコミュニケーションは際限なく起こり続けることでしょう。
それに仮に答えがあったとしたらその世界にはコミュニケーションは果たして存在しているのでしょうか?
あったとすればそれはコミュニケーションとは異質な何かであると思います。
コミュニケーションというものは、それを行っている人自身も含めて常々変化しているものであり、しかも人によってとらえ方が異なるという「ナマモノ」であるわけです。
にもかかわらず、私たちはコミュニケーションに正解を求めてしまうことがよくよくあるというのです。
このように言えば説得力があるとか、話さなければ何も伝わらないとか、言えばそれで理解できるはずだとか、その言葉の使い方は変であるとか、相手に何かを求めてしまうとか。
僕はこれを「正解病」なんて思っているのですが、厄介なところは自覚症状がなく誰もがこの病気を抱えていることでしょう。
おくすりで何とかなるわけでもないのでこの病気のことを知って受け入れるほかないのではないかと思います。
僕がこれまでに40人近くの人とインタビューゲームをしてきて、今日のようにインタビューゲーム会のファシリテーターも務めてはいますが、インタビューゲームのことを分かっているかというと分かってはいないのです。
インタビューゲームを通してコミュニケーションのことを考えることはよくしていますけどね。
つまりはコミュニケーションというものを理解していないことが悪いことでは決してなく、ただ考え続ければいいだけのことに思います。
考え続けていれば「正解病」の免疫力、正しい・正しくないにとらわれない問いの立て方や考え方も分かってくるのではないでしょうか。
インタビューゲーム会をやる前から事前に用意していましたが、振り返りでは自然とこのことに関係する話がでてきました。
良い・悪いってなんでしょうね?
これはなんとなく思っている程度のものでしかありませんが、正解を求めてしまうと根底を置き去りにして小手先の方法論に走ってしまう、ということになっていることが多くないかと思ったりしています。
人によって好みの環境は異なる
今まで何度かインタビューゲーム会のファシリテーターをやってきましたが、記憶している限り今回はじめての光景がありました。
他己紹介文を書く際に、部屋の隅や別の部屋でなど、ほかの参加者とは離れて取り組んだのでした。
この作業は個人で行なうものなので、必ずしも集まっていなくてもいいわけです。
普段自分が生活しているところであることやそれだけ余裕のある空間だったからということもあったかもしれませんが、僕自身もそのようなことはしたことがなかったので初めての光景でした。
最初にも書いたように僕にも大曽根のシェアハウスでやることにこだわりがあったように、人それぞれにこだわりがあるわけですね。
僕のインタビューゲーム会を開くにあたって考えることも広げられました。
「相手になりきる」ことと「主観」
これは僕自身の話になりますが、前回にやったオンラインでのインタビューゲームに引き続き、空間軸と時間軸を意識しました。
空間軸と時間軸とは?と思われるでしょうが、前回の時にも書いたこともあるのでご覧ください。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
前回を踏まえて意識したのは、インタビューから空間軸意識でやることです。
簡単にいえば僕が定義している空間軸というのは、過去も未来もない、すべてを「いまここ」の価値観から生み出されていることとしてとらえるということです。
前回やった時にインタビューは時間軸、他己紹介文は空間軸でと考えてみた結果、主観が強くなったのでした。
それを踏まえての今回だったのですが、相手の反応も含めてやってみて思ったことはやはり主観が強いなということです。
こう考えていると、本当に言葉とは何かという問いに支配されるのです。
言葉には人の価値観がとけこんでいるものなのでしょうか?
「相手になりきる」とは相手の言葉を用いることなのでしょうか?
相手の言葉ではないものというのは僕自身の主観なのでしょうか?
このような問いが頭の中を巡っているのです。
「相手になりきる」ということについては割と初期から考えていたことですが、1周回って分からなくなりました。
指示表出と自己表出が鍵となりそうなのですが、しばらくは考え続けることになるでしょう。
今回もいろんなことが起きたインタビューゲーム会ですが、次回はまた初めての場所で開きます。
次回は6/17(土)13:30~17:30に八事駅から徒歩5分ほどの場所で開催します。
(詳しい会場場所についてはご参加の方に別途連絡します)
普段は小中学生対象のフリースクールを開いているところになります。
スタッフとしてお手伝いをしていた時期もありますが、見学した時の投稿があるので載せておきます。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
また何か普段とはちがうことも起きるかもしれませんので、よければどうぞ!
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