【連続投稿181日目 1519投稿目】
【作成日時:3/16 18:58~19:33、35分】
テレビで知ったのですがどうやら「句点恐怖症」なるものがあるようです。
言われてみると確かに文字でのやり取りで句点を使うこともあれば使わないこともあり、文章からの感じ方も大なり小なり違うと思いました。
全てではないですが、僕自身の送る文章では大学以前からの友達に対しては句点をつけていません。
一方、メール、それ以外だと社会人になってからできたつながり、特にコミュニケーションや学びといったニッチなことを深め合った人とに対しては句点をつけることがあります。
また句点ばかりだと味気ないということで文末に絵文字を入れることで句点が入れなくて済むようにすることもあります。
この「味気ない」というのが「恐怖」に関係するのかもしれませんね。
一般性に目を向けると、LINEやXを気軽にやっている人の投稿は句点がないことが多いのではと思います。
逆にメールやフェイスブックの投稿、Xでも自分の意見を文章でしっかり書いている人の投稿は句点がついているように思います。
ここで問いが浮かびました。
どうして句点によって印象が変わるのか、そしてなぜそれが「恐怖」になるのでしょうか?
しかし考えてみれば妙なもので、文章においては句点を付けることが「ルール」であるにも関わらず、決まりごとに対して恐怖という印象が乗っているということになっています。
その「ルール」として決まっているということにカギがあるのではないかと思いました。
この文末には句点をつけるというルールは社会的に決められていることです。
つまり人によっては言ってしまえば押し付けられているものなのです。
自分で決めたわけではありません。
するとこのルールに対して合意を取るというようなことはないので、自分で折り合いをつけるしかないのです。
ですがこれが普遍なことであると折り合いをつけきられない上に自分で「堅苦しいやり取りにおいてつけるもの」と意味づけするとどうでしょう?
句点が使われていると「堅苦しさ」の裏返しで「恐怖」が生まれるといえるのではないでしょうか。
そう考えてみることができると句点恐怖症の克服方法も見つけられるのではないかと思います。
この「恐怖」は「堅苦しい文章に句点を付ける」という社会的使い方から超えた自分の認識によって生み出しているわけです。
「マイルール」なんて言ってみてもいいでしょう。固定観念です。
しかもその「恐怖」の向き先はそのやり取りをしている相手であるわけです。
実際にメッセージの送り主がなぜ句点をつけているのかというのは聞かなければ分かりません。
しかし相手が別に大した意図がないならば、社会的ルールに沿って送られたものを自分の解釈で勝手に相手に恐怖にしていることになります。
自分と他者と社会、何1つかみ合っていないですね。
僕も句点に対してかしこまっているという印象は受けますが、それは自分が思っていることと思えられればいいのではないかと思います。
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今後のイベント予定
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