1週間前に寺子屋塾仲間が運営している「教師塾」が開いたイベント、読書会に参加してきました。
今回の読書会で扱った本は『生きる技法』(安冨 歩)でした。
こちらの本に関しては寺子屋塾でも取り上げられることがある1冊でもあり、ほかの場で開かれている読書会でも扱われたことがあるようなものです。
僕自身もこの本のことはさっと目を通したことはありました。
ただしっかりと読んだことはなかったのでこれを機に読んでみようと思ったのでした。
とはいっても今回の読書会で扱ったのは第7章・第8章とこの本の最後の部分でした。
ですのでそれまでの部分の内容を詳しくは知らない状態で参加しました。(この読書会では「本を読んでいなくても参加できる」ものとなっています)
第7章では「自己嫌悪」、第8章は「成長」がテーマとなっています。
第7章の自己嫌悪に関して僕が特に思ったのは、自己嫌悪を悪しきものならば自己嫌悪にならないような子育てをすればいいのかです。
そもそも自己嫌悪に無縁な生き方はできないのではということもありますが、仮に無縁になることができたとしましょう。
では成長の観点からすると本当に自己嫌悪という経験をしないことは好ましいのでしょうか?
僕も昔から今も自己嫌悪にさいなまれていますが、ですが昔に比べればだいぶ向き合うことができるようになったと思います。
自己嫌悪を経験しなければ、その自分の一面と向き合う機会がなくなるのです。
いや、自己嫌悪という困難に陥りながらも向き合うことができるようになるから人としての深みが生まれるのではないでしょうか?
そしてそれはまさに身体も同じだと思うのです。
痛みは嫌なものなくしたいものですが、あるからこそ異常にも気づけるし、今の僕のように身体と向き合おうともなりうるのです。
そうそう、赤ちゃんの時から自己嫌悪になっている人はいないのではないかと思いますが、これも身体にも同じことが言えると思うのですね。
高いところから落ちるみたいな出来事は別として、赤ちゃんが脱臼したりギックリ腰になったりと、普通に生活していてで大ケガをするでしょうか?
昨日の投稿の中ではネコをはじめとしたと人間とを比較しましたが、人間でも赤ちゃんとケガをするような人という照らし合わせ方で読み直してみるとさらに考えることがでてくるのではと思います。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
そして今回の2つの章の内容を話している時に、自己嫌悪も成長も結局は最初に書かれている「自立とは、多くの人に依存することである。」から生じているという話にもなりました。
簡単にいえば人は誰しも他者がいることで生きているということを考えれば、協力したり助け合ったする人が多いほど好ましい生き方ができているといったところでしょうか。
逆に1人に極めて依存するということになればそれは偏った状態であり、ほかの人とのつながりが薄くなっていると考えれば”従属”となっているのです。
そしてこれも僕は身体の話そのものに思ったのです。
1か所に負担が集中する、従属状態になると痛みが生じる、そうならないためには多くの部位に依存することにほかならないわけです。
その話の投稿も載せておきます。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
最近は身体のことを特に考えているから結びついたのでしょうが、ほかのあらゆることとも関係していることがあることでしょう。
最後に主催されたお二人のブログでの振り返りと次回の教師塾のイベントも共有しておこうと思います。
次回も読書会で、今回と同じ安冨歩さんの著書で自己嫌悪にさらに焦点当てている本だそうです。