【連続投稿140日目 1478投稿目】
【作成日時:2/5 17:40~18:23、43分】
昨日も投稿したように『言葉のズレと共感幻想』(『言葉のズレ』)読書会に参加してきました。
今回は第10章・11章を読んだのですが、その中にSNSの話から共感によって世の中が動いている部分があることが書かれていました。
Xやフェイスブック、インスタグラムなどといったSNSに実装されている機能に「いいね」があります。
その「いいね」の数が多いと人の注目も一層集まり、より多くの人に強い影響を及ぼすというわけです。
それはいわばお金やモノに変わるある種の「資本」とも見れるわけです。
よって共感によって動く経済だといえることから「共感エコノミー」という言葉が使われていました。
それに付随して、ある参加者の質問からどのようにSNSを使っていたり「いいね」を付けているかという話になりました。
SNSを使う目的が人によって違うということも分かりましたし、「いいね」をどのようにつけているか、また付けられた「いいね」をどう捉えているかが異なることも分かりました。
普段の場ではこのような質問は出ないでしょうし、大人数で聞き合うこともそうそうないでしょう。
『言葉のズレ』に書かれていたというきっかけがあってかつ、聞いてみたいと思った人がいたからこそだったと感じました。
ちなみに僕が使っているSNSは、このブログに加えて、X、フェイスブック、Threads、そして最近はインスタグラムの投稿もするようになったので多い方ではないかと思います。
順に、
X
Threads
インスタグラム
のように「いいね」にあたるものが組み込まれています。
そして僕も「いいね」を付けることがあります。
ただ考えてみると不思議なことに、それぞれで「いいね」を付け方がちがっています。
それはおそらく各SNSの見る具合や慣れ具合、そもそもそのSNS自体が社会的にどのように使われているかにもよることでしょう。
僕が最も「いいね」を付けているのはフェイスブックです。
ある程度はその投稿内容に共感して付けている部分もありますが、そうでなく付けることもあります。
久しぶりに見かけた人の投稿には付けることが多いです。
それは生存報告というと言いすぎですが、対面で久しく会っていない人であるとつながりが薄くなっているので見ていることとともにつながっていることを示したいと思うことから付けています。
しかしそれ以外の場合もあって、かつてツイッター、しかも「♡」ではなく「☆」の「ふぁぼ」と言われていた頃に「ふぁぼ魔」という言葉がありました。
「魔」は「通り魔」から来ているのではないかと思いますが、つまりは内容に関係なく見かけたらとにかく付けるようなことです。
僕もフェイスブックで「いいね」を付ける時にこのような付け方をしていることもあるのです。
しかしこれらの付ける・付けないの基準が明確でなければ線引きの境界が決まっているわけでもありません。
このブログの名前の通り気分で気ままに付けているのです。
・・・というように考えると「いいね」の数が共感の数とは単純に言えるものではないようにも思うのですが。
得られている「いいね」の数の差による格差、共感格差ということが『言葉のズレ』紹介されていますが、その数だけで判断が生まれることはどうなのでしょうか。
昨日も書きましたが、自分で読んだ時には「経営」を意識して読んだのに対して、今回はこのように自分ごととして捉えました。
読む環境が変わると考えることも変わるものだと改めて感じました。
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