昨日の投稿の話、「zoneコーディネーター養成講座」の後に読書会に行ったら予想外のことがあったという話の続きです。
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そんなこんなで読書会の様子を聞くつもりが移動もしながら話していたのでほとんど聞かずとなりましたが、最後の感想交流の時は戻って聞くことができました。
その時に僕にも今日の感想を振られました。
今日の読書会ではこちらの『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。』という本を扱っていました。
前回の流れから今回のこの本が採用された形で、前回も今回も同じ著者だったのでなんとなく趣旨はつかめていたつもりです。
そしてほかの人が感想の中で自分の自己嫌悪エピソードを話してもいたので僕も同じく話すことにしました。
それはこの場でのことです。
感想交流をしている途中で、差し入れに小さいパンを参加人数分持ってきていましたがそういえば飛び入りしたということもあって何か伝えず手渡してしまっていたのでした。
それも紙袋に入っていて中身が何も見えない状態だったので手をつけづらいものとなってしまっていないかと気になったのでした。
なら感想をしゃべるタイミングでそのことに触れようと思ったのですが、次はどんなパンを買ってきたのか忘れてしまったのでした。
少しでも早く着きたいと思ったので立ち寄ったパン屋でサッと買ったのでした。
というところでレシートを見れば分かると思ったのですが、ほかの人の視界に入る場で財布を出して確認するのはどうかと思ったので移動して確認をしました。
結局実際はレシートをもらっていなくて確認できなかったのですが、この一連のことは自己嫌悪が起因しているのだと気づきました。
この本で扱われている「自己嫌悪」は他者あるいは自分で描いている自分の理想像との比較からレッテルをつけてしまうことによるものです。
どうしてどんなパンであるかを言おうと思ったかというと、こういう時にはどんなパンを説明した方が完璧であると思ったことからでした。
そして人から見えるところで財布を出さずに移動して確認したことについても、できる人は裏で確認しておくだろうという観念があってのことだったと気づいたのでした。
だからこのままなんで自分はこうも段取りをしておけないのだろうと思ってしまうと完全に自己嫌悪に陥っていたことでしょう。
しかしこのことからどうすれば「自己嫌悪」から脱却できるかを考えられるかもしれません。
ほかにもいろいろな考え方ができると思うのですが、僕が思ったのは「きく」ことです。
そう、ちょうど読書会の前に参加していた「zoneコーディネーター養成講座」での内容そのものです。
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僕が一連のことが自己嫌悪から来ていると気づくことができたのは自己対話して「本当に裏で確認しなければならなかったことなのか?」と「訊く」をしたからです。
自己嫌悪に陥っている時というのは自分自身と対話できていないのではないでしょうか。
自分では対話しているようでも実は自分とはなく比較対象を見ているということは往々にあることでしょう。
広い視野を持つということでもあると思うのですが、いかに視野が狭くなっていることに気づけるかが大切なのではないでしょうか。
その脱出するスベが「きく」ことだというわけです。