生活している上で人の行動に対して考えていることで大切にしているのが「環境」です。
例えば好きな音楽が流れているから店に立ち寄るとか、相手と波長を合わせるために声のトーンやスピードを相手に合わせるとか。
自分がよく追っかけているのがこのようなことですが、考えると音、景色、気温、自身の状態、周囲の人の状態、さらにそれがさらに細分化されます。
無数の変数がある中での組み合わせで人の行動が決まるといえるわけです。
人の行動を正確に予測するというのはその無数の変数を読む必要があるので極めて不可能なことです。
それに対して、最近読んだ本に見方が真逆な本がありました。それは『羽生 21世紀の将棋』という本です。
保坂和志さんという人が羽生善治さんについて書いたこの本で、20年くらい前の本なので今では羽生さんの考え方が変わっている可能性もあります。
ただ、その中でキーワードの1つが「最善手」でした。
将棋での話ですが、いろんな指し手が考えられる中にはいい手とされる「好手」からよくない手という「悪手」まで多数の手があります。
その中で最もいい手が「最善手」と言われるものです。
この「最善手」の話が最初の環境の話とどうつながるかというと、棋士の中には相手の人のタイプやその対局の流れを大切にする人もいます。まさに環境を読んでいるわけです。
しかし異なる考え方をもっていたのが羽生さんでした。それは、最善手は常にあり、盤面があらわしている、という考え方です。
一手一手変化する局面それぞれに最善手は存在して、それは自分・相手という周囲は関係なしにその局面がすべてという捉え方をしているわけです。
環境が無数の変数を宿しているならば、羽生さんの考え方では局面と駒の動き方という定数ですべてが決定しているというものです。
僕は、羽生さんはもちろん尊敬しながらも、やっぱり日常生活の上では最初に書いた環境という無数の変数を少しでも読むことをこだわります。
ですが、こういった真逆の考え方もあるということを知ることで、極端に考えすぎないようになりバランスの取れている位置で考えを持つことができるのではないでしょうか。
なので、真逆の意見というのは大切だなと感じています。