気分やさんの気ままなブログ

【『先生はえらい』を読んで(前半)】

 

f:id:itasan-kibunyasan:20180330225857j:plain

 内田樹さんの『先生はえらい』という本があるのですが、週1で通っている寺子屋塾に置いてあり以前からずっとどんな本なのか読んでみたいと思っていたので行っては読んでいました。

 

 どういったことが書かれているかというと簡単にまとめれば「コミュニケーションも学びも自分と相手とのズレや思い込みから生まれて続いていくものだ」というところでしょうか。コミュニケーションにおいて思考が完全に一致することがないからこそ相手を知ろうとして聞いたり話したりが生まれ、深い対話が生まれる。もし相手を完全理解したらそれ以上聞くことありますか?学ぶことも自分と相手の間にズレがあるのです。この先生、ないしは自分が何かを得ようとしている人がすごい人だと勝手に思い込んでいることからこそ学び取ろうという気持ちが生まれるのだということです。これを読んだ時に数学でも同じだと思いました。数学を解く中でもその人の中で勝手に問題の解釈を持つがゆえに答えは1つだとしても無限の答えまでの流れや思考が存在しているのです。何なら間違えたとしてもそれも誤答という1つの結果だと言えば結果だって無数に存在しているわけです。勝手な思い込みから数学だって始まっているのです。ここで言いたいのはただ問題を解くというだけに限らないことなのです。世の中に潜在する法則を見つけることにおいても勝手な思い込みから始まっているのです。それを世の中では仮説だとか推測だとか着飾った言葉を使っているのです。もっと深くまで掘り下げるのであれば僕らが当たり前に使っている0~9の10個の数字から数の体系を作り出しているという「10進数」でさえ思い込みの中のものだと思います。本当に10進数じゃないといけないのですか?本当に10進数こそが便利な体系なのですか?コンピュータの中は2進数ですよ?10進数の中で成り立つおもしろい法則(それぞれの桁の数を足した数が3で割れれば元の数も3で割れるとか)もありますが他の何進数かだってきっとおもしろい法則があるんじゃないですか?でも10進数が便利だと思い込んでいるからその中で数学の世界が今でも広がり続けているのです。

 そしてこのようなズレの話は内田さん自身が書いたこの本を読んでいる読者に対しても触れています。つまり自分の言っていることと読者がこの本から考えたことのズレです。実際、内田さんがこのように数学と照らし合わせて読む人がいるとは思ってもいないでしょう(笑)

 この本を読んだ時にこのブログのこともよぎりました。僕の文は「誤読の自由」を作れているのだろうかと。自分の主張が正確に捉えてもらえるようにという気持ちで書いていたからです。ただ、そう思った一方でわざわざ「誤読の自由」は仕込むものなのかと次に思ったのです。先ほどのように文章や言葉自体に自然と誤読のエキスが溶け込んでいるのにそれ以上に人工的に手を入れる必要はあるのでしょうか?うーん、どうなんだろ?

 

 ・・・と感想を書いていったところでまだ半ばなので残りは明日に回します!