気分やさんの気ままなブログ

【「俯瞰する」ということ】

 ※今日の投稿は、言葉というものはあいまいだなー、ということを前提に読んでもらえたらと思います。もちろん、誰かの考えを否定する気も毛頭ありません。もし癪に触ったり反論したくなったら、(反論してもらっても構いませんが)言葉というものはあいまいだなあと思ってもらえたらいいかなと思います。(つまり反論されても僕も同じように思ってなるほどな~って思うでしょう(笑))

 

もうとっくのとうに大学の時に所属していた委員会、生協学生委員会(GI)はとっくのとうに引退しているが、委員会のメーリスには今も入り続けている。なので今のGIの議事録とかが流れてくるのですがそれを新聞気分で見ています、老害ですね(笑) それで今日送られてきた議事録の中に「俯瞰」という言葉が出てきていたので考えてみた。(ちなみに「俯瞰」とは辞書上の意味としては「高いところから見下ろし眺めること」です。)

 

人によって「俯瞰(ふかん)する」ということがどういうことかというレベルは違うとは思うし、自分が使う時でもその場面によって変化している。僕は、最高レベル、真の意味での「俯瞰する」っていうことは「神様になる」っていうことだと思います(笑) 「俯瞰する」とは高いところから見下ろす、つまりはものごとの全体像をとらえるということほかならない。しかし、ただ見ているだけでは「眺めている」ということであり、そこに「思考」を加えなければ俯瞰したことにはなっていないというわけです。しかし俯瞰のために思考するにはいろんな見方をするようにならなければならない。そのためにはその場を構成している人、一人一人になる必要がある、と思うのです。一人一人がどのように考えて捉えているのかを理解するということです。その先に客観的に全体をすみなく見渡すができる、「俯瞰する」ことができるのです。そして以前に書いた

【続々・数学の演奏会】 - 気分やさんの気ままなぶろぐ

の「人を知る」という部分ともつながるところがあるかと思います。他の人、一人一人を捉えるには何よりも自分を知る必要があるのです。・・・自分のことはまだしも他の人を知るということは到底できない、理想なことでしょう。できるとしたら、それは「神様」でしょう。だから「俯瞰する」とは「神様になる」ことなのです。

それからそこまでできずとも、ある程度の域に達すれば全体を「抽象的に」見ることも必要となってくるのだと思うように最近なりました。一つ一つを全て咀嚼することが理想ですが脳がバーストするでしょう(笑) だからものごとをおおまかに捉えて見つめることができるようにもならないのでしょう。こんなことを自分で考えられたらドヤれるところでしょうが残念ながら本の入れ知恵なのですね(笑) これも最近頻繁に紹介している羽生善治さんの『捨てる力』にあったことからです。

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将棋で例えられていて、一つは過去の対局データを分析する時のこと、もう一つは将棋の形成判断(大局観)、それから先の手を読む時のことでした。ものごとを簡略にして抽象的に捉える、神様にはなれないゆえに出した対応策とも言えるのではないでしょうか?

 

 「俯瞰する」、みなさんにとってはどのようなことでしょうか?