ここ1週間ぐらい、不思議なほどに「自然」という言葉との縁を感じる。
1つは昨日から紹介しているけど、月曜日にやった5回目のインタビューゲームの相手へのインタビューから出てきた「自然」。環境である「自然」と有り様である「自然」体。
次は、つい昨日読み直し切った羽生善治さんの『捨てる力』に出てきた「自然」。自分の心持ちという「自然」体、それから将棋を指す上での「自然」な流れで将棋を指していくという話。
それから、らくだプリントで割り算の筆算をやっていて。自分にとって一番「自然」な解き方(「問題を解きやすいやり方」という言い換えが一番近いかもしれない)が「自然」と思い浮かぶのだ。
そして、今日は週1で通っている寺子屋塾にあったファシリテーションに関する本を見ていて本の中の最後の方で発見した「自然」流ファシリテーション、というパワーワード(笑) しかし表面上しか読んでないながらも、これが自分の中のファシリテーションの理想なものだと思った。
「自然」というものは自分ただ一人のものであり誰のものでもないのだとふと思った。これを掘り下げれば言葉というものはすべてそうなのだとも思えるような気がした。