【連続投稿85日目 1880投稿目】
【作成日時:3/17 24:28~25:16、48分】
一昨日の投稿の、体調を崩してらくだプリントをやれなかった時のことを通して「できない」について考える話の続きになります。
昨日の投稿をまだ読んでいない人はこちらから読んでみてください。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
今回こうして休んだ上で久しぶりにやって「できる」「できない」ことに対して感じられたことがあります。
それは「できる」「できない」ことを良い・悪いと捉えている場合、それは社会や世間といった世俗によって作り出されているものさしであることです。
休み明けにやったプリントは目安時間、指定のミスの数ともにクリアしました。
できることはうれしいことですが、それは対としてできなければ落ち込むことになる、という人もいるでしょう。
これが世俗によって作り出されているものさしの上にある「できる」「できない」で捉えているということです。
それに対して僕は時間・ミスの数をクリアしたわけですが、やっていた中でできていない部分を感じました。
シャーペンの扱い、問題の式全体を見ること、文字式の約分の見極めなどに「できなさ」を感じました。
ですがそれに対して悪いとかネガティブな気持ちにはなりませんでした。
考えたことはどうすればこれから取り戻せていけるだろうと、次のことでした。
それよりも体調が不完全な中でも1枚やり通せて、それがちゃんとこれまでの時間とほぼ同じ程度に「できた」ので十分よかったと思えました。
世俗のものさしではなく、自分自身のものさしで「できた」ことを捉えているのです。
自分自身のものさしということは「できる」の基準を自分で自由に操作できるのです。
このことを言い換えるとこうでもあるのでしょう。
世俗的「できる」「できない」はプラスとマイナスの両極の軸で考えています。
ですからプラスに位置する「できる」は「良い」となりマイナスに位置する「できない」は「悪い」となります。
それに対して自分自身で見出す「できる」には実は「できない」は存在しておらず、軸は0から始まって無限大に一方向のみに延びています。
今の状態がその軸の中のどこに位置するかというだけなのです。
それは「ただある」だけなので良し悪しが伴わないのです。
そして自己尺度はその人固有のものであり、人の内部にあるものであり、人は曖昧な存在であるので、明確なものではないのでしょう。
ですから「できる」をどうとでも捉えられるわけです。
何が言いたいかというと、その尺度は論理的なものではないということです。
現に僕自身が今この話を言葉で表現するのに、自分が思い描いている様相と言葉で表している様相がぴったりにならないのです。
それはおそらく言葉で説明するということ自体が論理的なことであるがゆえではないかと思うのです。
世俗的尺度は実体の世界であるのに対して自己尺度は論理を越えたファンタジー世界であるようなものです。
ファンタジー世界は実体の世界より進化した世界です。
世俗的尺度から自己尺度への発展は尺度の扱い方が一変することになるのです。
・・・ですが元よりあるのは自己尺度の方なはずなのですが。
結局うまく言い表すことができませんでした。
僕自身の見出している解像度がどれだけ高いものだろうかということもありますが、言語化する中で崩れてもしまいました。
見えるものから見えないものへの変換ということなのでしょうが、やっぱりこれを人に伝えるすべが難しいなと感じます。
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