気分やさんの気ままなブログ

【経験や価値観を話すことについて】

 子どもたちに教える場面で、自分の価値観や経験から考えたことなどを話すことについてどこまで話していいかに悩むことがあります。まさに昨日の投稿のキーワードだった葛藤でもあります。

 

 例えば、数学のとある問題が分からないと言われた時にただ単純にやり方を教える、それは極力やりたくないことです。その子にとってその上手くいかなかった時間も貴重な学びの時間となるからです。自分で解ければ少なくとも粘ることや解く感覚が得られることにつながるでしょう。

 

 同じように自分が経験したことを伝えることに関してもどうなのかと思うのです。推理小説で言えば犯人はコイツなんだよとネタバレすることと同じなのではないかと思うわけです。そうではなくてちゃんとストーリーを読んでコイツが怪しいなと思ったりしてそして真相を見て当たった・はずれた、これはこういうことだったのかと考えることにこそ価値があるのではないでしょうか。そもそもそういった過程を経てきたからこそ、そのことについて考えを持っている自分が今ここにいるわけで。そういった過程を踏まずに結論だけが先行するようなことは子どもにとって本当にためになることなのでしょうか?

 

 ・・・このままだと話さない方がいいということになってしまいますね。ですが、必ずしも話すべきではないとは思わないです。だってせっかくその子が新しい道を切り開こうとしている場面でナイショとしてしまってはさすがに人生の先輩という一個人の人的な点でも今後の人間関係的にも残念な方に向いてしまうのでは・・・。ですから、もちろん子どもが訊いてきて求めてきているということが大前提ですが、別に経験を話してもいいと思う側の意見もあります。それは、経験を話そうがその意図としては、ことのすべてを伝えたいのではなく、きっかけを与えるためという考え方です。先ほど推理小説で例えましたが人生においては正解も不正解も、必ずこれに収束するという結論もまずないでしょう。死ぬとかじゃなくて価値観に関してで。ですから話してしまっても本当にその子のものとなるわけではないのであり、先々そのような経験をした時にこそ本当にその子のものとなる、このように思うわけです。書きながらそういえばと思い出したのが、このような考え方で僕が本を読んでのことをブログで投稿しているということです。それと同じです。

 

 きっと線引をしようとするとこのような是非というおかしなことになるのではないかと思います。大切なのはその子にとってどうなのか、場面ごとに立ち止まって考えることじゃないかと思います。