気分やさんの気ままなブログ

【「質問」と「発問」と「問い」と「確認」】

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 こちらの『問いのデザイン』という本を読んだ時のこと。

「質問」という言葉と類似した言葉で「発問」と「問い」という「質問」を含めて3つの言葉を区別して紹介されていました。

「発問」という言葉はなじみがあまりない人もいるような気がします。自分としてはなじみはありました。

というのは、授業をするにあたって作成することになる指導案の中で「生徒への発問」というように用いられていました。

しかし、どうして「質問」ではなく「発問」なのかと気になったことはありましたが、そういうものなんだなと調べずじまいでした。

 

 さて「質問」「発問」「問い」の違いですが、先に断っておくとこれらはあくまでも言葉なので用いている人によっては今回の定義にあてはまらない場合もあると思います。

3つの違いを「問う側」と「問われる側」の2つの立場が「答えを知っている」かで定義されていました。

 

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上の写真の表を見ると分かりやすいと思いますが、

質問:問う側は答えを知らず、問われる側は答えを知っている

発問:問う側は答えを知っていて、問われる側は答えを知らない

問い:問う側も問われる側も答えを知らない

と分類されていました。

そういわれてみると指導案で「発問」が使われているのは、教師の中では与える答えがあって生徒は答えを探るということで、このとおりの使われ方がされているといえるわけです。

 

 もっとも今回読んだのはファシリテーションの分野を学んでいるとこの本が紹介されることが多いことから手に取りました。

そしてファシリテーションの上では重要なのは「問い」にあたります。

 

 付け加えるとすれば、

問う側も問われる側も答えを知っている→確認(問う・問われるという言葉の適切さはおいといて)

を含めた4つでこのマトリックスは完成するかと思います。

今までこの見方は意識したことがありませんでしたが、この見方を適切に活用できればよりコミュニケーションが充実するのではないかと思います。

【まずは内側から】

 先日投稿したとおり、店長が変わって1週間になりました。新店長が在中しているわけではなく、おそらく来るのは印鑑を持ってくる時ぐらいでしょう。

そういう状況なので所属歴が一番長いことと入ることが多いことから、人から実質店長と言われることもあります。

というより自分でもそう思ってでないとやってられないですし(笑)

 

 といってもでぇベテランのプロではないので店の売上の数字を上げるなんてことは簡単には結果でないですし出せる気もしていません。

じゃあ自分にでもできることが何かと考えた時に、この1か月でまず目指したいのは内部からの変化です。

 

 この1か月は、というよりその後もしばらくは応援の人が日替わりで入ることになります。中にはうちの店に初めて入る人もいます。

複数入る人でも、間の日が空くのでものの位置を覚えることも大変でしょう。

なのでまずは誰でも使いやすいお店作りを進めていくことにしています。ファイルの各ページにラベルシールをつけるなど、もうすでにテコ入れした部分もあります。

 

 もう1つは、具体的ではありませんが意識変化です。お客さんがあまり来ない店だもんね~とか店長常駐じゃないからね~という意識が先行しています。

それが事実ではあるのですが、それでは先に進まないというか変わるものも変わらないでしょう。

そのためにコミュニケーション、それもただたわいもない会話をするだけではなくてdo better につながるコミュニケーションでしょう。

要するに「意識高いね」って思われかねないやつです。でも片方がそう思うのでなく共に意識高くなればそういう格差って生じないはずです。

といっても自分もネガティブな意識がまだあるのも事実なので、一人だけでなく全員で変えることが必要ですね。

 

 まだほかにもテコ入れしたいところは構想は頭にはあるのですが、駒足らずというか意識レベルを上げなければきっとこれは実行に移らないと思うので。

順を追って進めていけたらと思っています。

【BRUTUSで絵本が紹介されていて】

 職場の休憩室にいくつか雑誌が置いてあるのですが、ずっと気になっていたものを手に取りました。

 

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 それはCasa BRUTUS(カーサブルータス)という雑誌です。ここ名古屋では以前に「名古屋の正解」で話題に上ったBRUTUSの兄弟誌になります。

そのCasaの8月に出たのが今回の本です。

「こどもの本100」ということで100冊の絵本が紹介されています。

絵本に深く関心を持つほどではありませんが、こうやって扱われると知っている本が入っているものかと見てみたくなったわけです。

それにこの歳になったからこそあの本は誰が作っていてどんなこだわりがあるのかということもおもしろいですし。

 

 手に取ってみると子どもの時に知っていた本から大人になってから出合った本まで知っている本が多くありました。

一方でまだ知らない本の方が多かったですし、じゃあまだ知らない本はどんなものなんだろうと気になって探しに行きたくなりますね。

まさに「大人も読みたくなるこどもの本100」です。

 

 

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 しかも上田信行先生が関わった本も紹介されている!

【けんこー・だい・い・ち】

 久しぶりに映画館に行きました。(もちろん混んでないであろう曜日・時間を選んで)

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はたらく細胞!!」の映画を見ました。

 

はたらく細胞!!」がアニメでやっていたのは確か2年前でした。

体内の細胞や病原菌・ウイルスをキャラクター化した作品です。

アニメの作品としても優れていますが、当時の職場の学校で理科の先生はじめほかの先生たちが「教材として使えるよね~」と話していたほど教材になりうる作りでした。

その上で感動するストーリー仕立てなのがすごいところですね。

 

そのうちコロナウイルスが題材の話も作られたりしないですかねー(笑)

 

 

・・・ここからは感想というか、ただ思ったことです。

 

・映画館でも安心のBGM+能登さんのナレーション

・血小板ちゃん、今回もかわいいよ~

・さらに乳酸菌もかわいいよ~

・・・・2時間で次々と問題が起こったけど、よくこの体の人は生きながらえているな

【「僕が見ている世界」その12-視野が広ければ】

突然ですが問題です!(笑)

 

 歩いていた時に水滴が当たったような感じがして、今のは雨なのかと確認するために手を上向けて出しました。

もう一滴当たることで確認しようとしたわけですが、もう一滴当たらずとも雨だということが分かりました。

別に水滴が目に見えたわけではありません。地面を見て分かったわけでもありません。

まだ傘をさしていた人もいませんでした。

ではどうして雨なのだと確信できたでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、手を出しながら辺りを見ると同じように手を出していた人がいたのです。

手を出しているということは自分と同じで、一滴当たったような感じがしたから手を出しているはずです。

ということで、2滴目は必ずしも自分自身でなくても確認できる場合もあるってことです。

雨が降り出したどんよりした、視野も狭まりがちな天気でしたが、その中で広く見れたからこそ気づけたことだと思えて、ちょっといい気分になりました♪

【書けたぞー!】

 8月の半ばからブログを更新せずじまいの日がちょくちょくありました。

それらの日の多くが共通している点は仕事が休みの日の前日ということです。

休みの日の直前の投稿はしないという習慣ができてしまっているのか。

もちろん意識としては更新しようと思って考えてはいるけど「思い浮かばない~」ってなって閉じてしまう。

いや、習慣というならばそれは書かない習慣ではなく、仕事が終わったからもう休んでいいやという頭になるという習慣ができてしまっているのかもしれない。

 

 そんな理由も言いがかりなのかもしれない。事実は「更新しない日が何日かある」だ。

だから明日が休みである今日も、今日こそは書こうと思って考え始めたのがこのことでした。

 

ってことで、ちゃんと今日は書けたぞー!

【コロナのおかげで(?)】

 今日ニュースで見たことで、インフルエンザにかかった人の人数が去年より圧倒的に少ないと報道されていました。

具体的には今月6日までの一週間での患者数が3人で、去年の1000分の1以下だそうです。

 

 どれほど厳密かは分からないので、もしかしたら今年はインフルエンザの流行が遅いだけの可能性もあるかもしれません。

ただ、このまま減少傾向が持続すれば、過去の感染予防は甘いものであり、徹底すればインフルエンザ程度なら十分予防ができるということが明確になってもおかしくないでしょう。

 

 

 コロナウイルスとインフルエンザを比較するのは微妙なものとなっていますが、インフルエンザについてで過去と現在を比較することではっきりすることがありそうですね。

【安定期にさしかかるかと思いきや】

 アルバイトを始めてから3か月が経ちました。3か月経つと割と安定してきそうな感じの印象をもつかもしれません。普通ならそうなるはずです。

 

 それが大きく状況が動転する事態になりました。地区の中でも人の異動がまずまずあるのですが、なんと15日付けで店長さんが変わることになったのです。

しかも別の店で店長をしている人が兼任する形でです。

つまり常駐するわけでなく、しかも向こうの方が忙しいのでどれほどこちらに来るか不透明です。

そうなると、店にいるのが一番多くて、この店にいる歴が最も長いのも3か月ながら自分になるのです。

おかげでこの2週間、バイトの身ながら、元々の業務自体がバイトでもここまでやるのということも多かったですが、一層細かい業務まで引き継ぎされました。

HPの更新とかも。

 

 まだ新しい店長さんとは顔を合わせていないですし、先の展開も見えていないのが今の状況です。

ただ、今も自分であれこれ考えているところですが、自分一人で抱え込まないようにとは思っているので安心してください。実際にまだ経験は浅いですからね。

経験を積んでいる新しい店長さんやほかの店の人にも頼ってこれからのお店の方向性を考えていけたらなと思います。

【生活の「余白」を作る】

 昨日の投稿に少し出てきた話が「余白」というものについてでした。

だいぶ前にもこの話を書いたことがありますが、今の状況も含めた話でリライトしてみることにします。

 

生活する上で「余白を作る」とはどういうことかという質問でした。

余白といえばふと浮かぶイメージは、印刷されている紙の中で字も何も書かれていない部分ではないでしょうか。

僕がいつも余白というものを考える時に反対なものとして考えているものが「デッドスペース」です。

デッドスペースも紙の中のスペースの部分にあたります。

しかし2つの大きな違いはデザインされているかどうかです。

デッドスペースは何の計算なしに存在している「ただの」スペースです。見てみると「何、この違和感あるスペース?」って思うわけです。

それに対して余白というのは、見やすくするためであったり全体のバランスを整えるために「作った」スペース、と僕は考えています。

 

 そして、人についても同じように余白の話ができるというわけです。

例えばですが、疲れを取るために必要なのは「休み」です。ですが休みであれば必ず疲れは回復するものでしょうか?

僕も以前よくあったことですが、ただ大したこともせず家でゴロゴロ過ごしている日が続くと「自分なにしているんだろう?もったいない時間を過ごしているな・・・」なんて思うことがあるのです。

そういった時って肉体的には疲れはしませんが精神的にはストレスを受けていて疲れるのです。まさにデッドスペース的な休みになっているのです。

それに対して、「最近はゆっくりできる時間がなかったから今日は休もう」みたいなことであれば、同じ何もしないでも考えがあった上での、余白的な休みになるわけです。

 

 

 今、デッドスペース的な時間になってしまっているなと思う時間があります。それは仕事中の店にいながらも何もすることがなくなった時の時間です。

終始がんばり続けていては心身がもたないので必要な時間ではありますが、その過ごし方がデッドスペース化しているのです。

この時間を余白に変化させたいなと思っています。

【続・『プレイフル・シンキング』読書会】

 昨日の投稿の続きです。(昨日の投稿は↓コチラ)

 

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

 

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今回の本『プレイフル・シンキング』を買ったのは当日の数日前でした。その上あらかじめ読んだのも休みの日ということで日中に半分程度読んだ状態でした。

そのような完全に読み切っていない状態でしたが、それよりもほかの人とこの本を介して交流することで生まれるものに期待が高まっていました。

 

 最初の方にこの本の言いたいことを確認し合うタイミングがありました。自分は今の状況もあり昨日の投稿のように「働き方の本」になっていました。

でしたが、ほかの人から働き方に限らず生き方についての本でもあると付け足されて、これも見方だな~、って思いましたよね。

やっぱりほかの人と読む方が広がりますね。

 

 本をある程度読む時間を取った後に、読んでみてみんなで問いを立てて、その問いをテーマとして話し合いました。

一つ目が「省察をする習慣を広めるためには?」でした。

その中で投げかけられたのが、記憶する中で一番最初にした省察はいつというものでした。自転車の練習などが挙がりました。

自分は何だったろうなって思い返しましたが、はっきりとこれが記憶している省察だと言えるのは公文式に通っていた時のことですかね。

高1で高校教材を修了した時に3年前は作文で「雲をつかむ話」だとまだ思っていたなとかあの時は大変だった・楽しかったなとか今までのことを振り返ったことです。

ただそれより前にも省察といえる出来事もあるような気はしていますが。

いずれにしても省察というのは現在を原点として時間軸と空間軸とを複合的に振り返ってリンクづけしているものにあたるなと思いました。

 

 もう一つの問いは「プレイフルな状態を保つため・取り戻すために意識していることは?」でした。

自分はこの問いが出た瞬間にまさに省察だと思いました。

ただ省察するためには省察できる状態である必要があり、やめてみる・止まってみる、心に余裕をもつ、余白を作る、といったことが出ました。

(「余白」の話が盛り上がって、これについても書こうと思ったのですが、また膨大になったのでまた明日の投稿に回します(これは想定外でした笑))

逆に余白なんて一切作らず、マグロのようにいつも「はい、よろこんで!」精神でやっていた時があったという人もいました。

中庸と言われるようないいバランスって思っている以上に様々なのかもしれないと考えさせられました。

 

 

 そして読書会を通して思ったことは、この会自体がプレイフルだったなということです。

本当にこの本の読書会をいろんなところでやりたいほど。

じゃあ同じようにやればプレイフルなものになる、ってはいかないんですよね~きっと(笑)

このプレイフルな体験を「省察」することでプレイフルになっていた本質が見えてくるわけですよね。