気分やさんの気ままなブログ

【計算機・人工知能と教えること】

 

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 読み始めてから1か月ほど経ってもまだ半分しか読めていない本『数学する身体』(読んでも著者の世界観に入り込めずなかなか読み進められない・・・)。その中に書かれていた計算機(コンピュータ)・人工知能の話と学校での文章題の授業とを考えていて結びついたこと。

 

 まずは計算機・人工知能の話。本題の前に計算機というものの背景を。「コンピュータ」がいつ何という名の機種で生まれたかというのはなかなかあいまいなものですが、何のために発明されたかというと「計算する」ためです。この話は「コンピュータ」という表現が(おそらくですが)広まる前のことなので、そんな背景になぞらえて「コンピュータ」のおおもとということで「計算機」と表現していきます。「計算機」ということで何を計算したのかきっと納得しやすいものは、1940年代なので軍事の弾道計算ではないでしょうか。この本に書かれていたのは軍事目的でも機密情報を保護している暗号の「解読」をすることでした。人力でも不可能ではないでしょうがその暗号はものすごい数の中の1つが正しいものであるわけで、全部しらみつぶしにあてはめて計算していけば費やす時間と労力が計り知れないような量なのです。そこで一つ一つを高速で人間の疲労なくやってくれるものを!、ということで計算機が発明されたわけです。

 その計算機を発明するにあたってすごーく身近なモデルがあったのですが、なんでしょうか?そう、私たち「人間」です!暗号解読に関しても、時間と労力に際限がなければ当たり前にできるわけで、システムというかやり方、アルゴリズムは私たちの中に潜在しているわけです。なので計算機を発明するにあたって、自分たちがその暗号を解読するためにどのように考え、計算し、当てはまるかどうか判断し、正しいものを導き出しているか、と自分の中に潜在しているアルゴリズムを掘り起こす必要があります。そうした結果、計算機が生まれたのです。そんなコンピュータと表現されると違和感を感じる「計算機」と現在進行形で発展し続けている「人工知能」、一見かけ離れた存在のような気がします。しかし実は発明に至る考え方は同じなのです。人工知能というのはその機械自身で考えを膨らませていき進化していくというわけですが、これのモデルもやはり私たち「人間」なのです。人間の当たり前すぎるけど当たり前でない過程である、どう成長していって考える力が高まるのかを掘り起こすのです。ちなみに、人工知能についての論が唱えられたのは計算機ができた1940年代に実はもう提唱されていたのです!実際は、当時には相手にしてもらえなかったそうですが、提唱した人であるチューリングは時代の先を行っていたのでしょうね。

 このように、計算機・人工知能は人間の当たり前を探っていって生まれたものでした。そこで文章題を教えていた時の話です。僕が今思い浮かんだ場面は数学で文章題の解き方を子どもに教えている場面ですが、教えるということ全般について、今の話と同じように、自分が今から教えようとしている「自分にとっては当たり前なこと」がどのようにできているのか、を教える人は自分のことを分析する必要があるということではないでしょうか。「頭がいいヤツよりバカなヤツの方が教えられる」ということを聞いたこともありますがこのことの本質は、頭がいい人ほど自分の中の当たり前に深く潜り込む必要があるということではないでしょうか。

 

 数学から脱線してしまいましたが、数学を自分の中、身体に潜り込んだ上で取り出す、ようやくこの本のタイトルである『数学する身体』に寄り添えたように感じました。

 

 ここからは書きながら思い浮かんだこと。じゃあ、計算機・人工知能といった機械を作ることと人に教えることの一番の違いは何か?それは「理性・感情」しか残っていないと思います。機械はアルゴリズムを投げ込められれば(機械にとってエラーでなければ)拒絶することなく受け入れるわけです。しかし人は教えられれば必ず受け入れるかというとそうではありません。反抗してくることがあります(笑) 一方で、人には感情、いわば感性や直感なるものがあるからこそ機械は人に完全に追いつけていないわけでもあります。つまり人には柔軟性もあるが頑固さもある。これが教えるということの難しさでもあり面白さになっているのでしょう。