気分やさんの気ままなブログ

【続・数学の演奏会】

 昨日行ってきた「数学の演奏会」の続き。

 

 言葉は遊び・遊戯だ(ソクラテス

 歴史の生い立ちの話になった時にこの話が出てきました。ソクラテスが残してきた書を解読して考えを理解しようとしたり本が出ていたりして僕たちは必死に理解しようと努力しているがソクラテスは遊んでいたんだと思うとバカバカしくておもしろいですよね、という話。つまりは対話にこそ本質があるのだということでした。これを聞いて、言葉にも止まっている・死んでいるもの(文字)とエネルギーをもつ・生きている、という2つのものがあり、そして2つの間で決定的に違うのがそれぞれがもつ情報量の差だと感じたのでした。これはおそらく明後日ぐらいに書く「インタビューゲーム」というものにも大きくかかわってくることだと思います。

 

 「分かる」と「操る」

 「操る」とは解くということでしたが筆算や方程式・鶴亀算を解くことを例にこんな話がありました。これらはルール、アルゴリズムさえ覚えてしまえば解けてしまいます。分かった上で操る、それが自分がまだ気づいていない以上に大切なのだと感じました。なかなか教える側がこの2つを分離して考えられていないような気がして自分もこれから心がけたいなと思いました。ちなみに鶴亀算を挙げたものの実際、鶴と亀が一緒にいることまずないし、いたとして見えるから分かるよねとディスってたのが笑ったw

 

 1

 1という数字は単位量なわけです(りんご1個、みかん1個、1メートル、1ヤード)が、全部同じ「1」なれど、それの意味しているものはりんご・みかん、距離でもメートル・ヤード異なるわけです。こうやって考えてみると数字ってあいまいだな~って思いました。だったらメートルは「m」なのだからこれだけで十分じゃん、ふとそう思ったのです。実際こうやって書かれ出すと回答欄が気持ち悪いことになるだろうな・・・と思って妄想はここまでにしたのですが、ここで考えたのが文字式の頭の「1」の省略。実際はなくても意味が通じるからでしょうが、もしかしたらこんなことを考えたから文字式の頭の「1」は省略することに至ったりして、そんなことが思えてしまいました。

 

  ものの見方

 昨日さらっと書いたことですが。例えば「4-2」は「2」ですし、「2-2」は「0」です。すっげー当たり前ですね。じゃあ「2-4」は?これを読んでいる人ぐらいであれば当たり前に「-2」と答えるでしょう。しかしこれを「0」と言うのです。はぁ?って思うかもしれません。僕もなんだそれって思いました。しかし言われたのが「りんごが2個あって、そこから4個取ったらどうなるか」という小学校で引き算を習う時の考え方に沿って考えたらということです。つまり負の数の存在を知らない小学生には「0」にしかならないのです。だから相対的に考えてみたり左に負の数のある数直線を作り出したりして新しい見方をすることでマイナスを生みだした。それから複素数も数直線と直交する方向に虚数を表現することを考え回転によって説明できることを発見した。それで考えたら今度は1対1対応にならないという「多価性」にぶつかるも、さっきの「1」の話のように、それは値としては同じでも違うものなのだという見方をもったり。・・・なんか話す方向がぶれてきてしまいましたが、つまり、正しいとか正しくないとかは置いといて発想を豊かにしていろんな見方を持つってことは大切なのだなと思いました。

 ・・・ちなみにtan x や1/xのように漸近線があってその前後で正負それぞれに無限になっていきますが、あれがなんとなく連続しているように感じるのは僕だけでしょうか?

 

 もう1つ書きたいことがあるのですがまだまとまってないのでまた明日。