気分やさんの気ままなブログ

【続々・数学の演奏会】

  昨日・一昨日と投稿し続けてきた数学の演奏会シリーズ最終話!

 

 日常に写像というものがあるならば・・・

 数学には関数というものがあります。「f(x)=」の式、あるいは中学であれば「y=」の式で書かれているものです。ここからはf(x)で写像についてがんばって簡単に説明しようと思います(のでついてきていただきたいです)。f(x)というのはxについての関数であることを示します。簡単にf(x)=x^2(xの2乗)っていう式を具体例としておきます。これはUの字のようなVの字の先っぽが丸まったようなやつ、放物線というやつですね。これというのは放物線というグラフを表していると言うことができます。しかしながら写像という見方を用いるとこのように解釈することができます。プラス方向にもマイナス方向にもずっと続いていくxの値一つ一つがx^2というルール"f"によって移動させられてできるものというようにも考えることができます。例えばx=1であれば1^2で(1,1)、x=2であれば2^2で(2,4)に移動させるということです。今挙げたx=1とx=2の間にも無数の値が存在するわけで線になるわけですが。

 つまり、xという素材があるからx^2が形成されたというわけです!(これさえ分かってもらえたらこの先の言いたいことは伝わるはず!!)ちなみに演奏会では写像という言葉は使われませんでしたが、極座標の回転の話から写像について、それからこの先のようなことを考えたのでした。

 さて、この一見数学としか縁がないような写像さん、これが日常に潜んでいることがないのかなと思ったわけです。その時に思ったのが他者理解について。最近自分のことを見つめてどうやら自分の理想というかエゴに「自分以外の他の人、全ての人が何を考えているのかを知りたい」という思いがある気がしているのです。(ヤベェなコイツ・・・) しかし、他の人というのは何十億人、自分が関わってきた人に絞っても少なかれ何千人とはいるわけです。そんな数多の人たちを知るためには少なくとも自分を完全に知らなければならないのでは?、そう思ったのです。つまり、僕の中に実在するいいところからブラックなところまですべての面が他の人の人格と対応しているのではと思ったのです。もしかしたら自分という素材だけでは他者全員のすべてに対応しきれているとは限らないので「少なくとも自分を完全に知らなければならないのでは?」というわけです。

 

 写像が日常に潜んでいるのではと今回考えついたのはこの1つだけですが、もっと対応関係づいているものっていっぱいあるような気がします。

 

 あ!晩飯を食べに寄った店で目についた「ソース」のラベルが手前の容器に写っているの、これも写像だ!(笑)

 

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