【連続投稿111日目 1632投稿目】
【作成日時:7/9 19:11~19:24、23:45~23:58、26分】
昨日の投稿で今現在起業の学校でも取り組んでいる「未来デザイン」の全体的な紹介をしました。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
今は1つ目の局面である理念設定が終わったところです。
ですが上の投稿の終わりにも書いたようにしっくり来ているわけではありません。
それは考えた理念が「究極の目的」となっているかどうかです。
ひと通りやり終えた時に考えるために出した要素を見返して考えたことがありました。
目的となっているはずであれば、目的ですから文末を変えれば「~のためでありたい」という表現にすることができるはずです。
しかし僕が考え付いたものの多くは「~のようでありたい」と「ため」ではなく様子にを表現する文末への言い換えの方が自然となってしまっていました。
そのように思っていたところ講師からの全体のフィードバックでまさにそのことに触れられていました。
それはノコギリに例えられた話で、「刃こぼれもなく、切れ味鋭くいたい」ならば何も使われずにいればいいということになってしまう、という話でした。
このたとえから連想したのが、数学の2次方程式の問題です。
x²=x
という問題の時には、両辺にxがあるからといってxで割ってはいけません。
なぜなら、割ってしまうと解がx=1となるわけですが、x=0も解となるからです。
xで割ることでx=0が出せなくなってしまいます。
そして、これはそもそもxで割ることが問題で、0となるもので割ることができないのです。
0となるもので割ってはいけないという前提を置き去りにしてしまっているわけです。
先ほどのノコギリの例えでいうならば使うことが前提であるわけです。
ですから自分にとっての前提となる目的は何だろうかと考えさせられました。
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