現在、らくだプリントをやってみて感じたり考えたりしたことを投稿し続けています。
そのらくだプリントをやらせてもらっている寺子屋塾の塾長である井上淳之典先生が、投稿をシェアしてくださり、今までの内容についてコメントもしてくれました。
今回はこのコメントを読んで考えたことを書こうと思います。
「わかること」と「できること」とは
次元が異なることなので。
「わかること」というのはもしかしたら一種の支配なのかもしれません。
なぜ人は他者とコミュニケーションを取っているのかというと、その人のことが「わからない」からだとも言えるでしょう。
その人のことがすべてわかってしまったらコミュニケーションを取ることは不要になるはずです。
そこから新しく生まれるものはあるでしょうか?
「わかった」と完結してしまうとその世界はそこで閉じてしまうのです。
世界が閉じてしまうということは、考えがその世界に支配されているわけです。
僕がこうして数学をやっているのも、数学というものがまだわかっていない、だからこうして数学というものをやり続けているのでしょう。
では「わかること」は良くないことなのか?
そうではないと思います。
「わかること」は自然なことだと思います。
以前に「自然と支配」について書きましたが、「自然」と「支配」は対立したものでなく相互的なものであると思います。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
したがって「わかること」に良し悪しはないのです。
だから「わかる」の良し悪しという呪縛から解放された結果、「わからせようとしないことで安心感が伝わる」のではないでしょうか?
・・・それにしてもほかの人の視点が分かると気づくことがありますね。
彼の記事内容は、プリント全体の構成や
部分部分を構成するパーツに対するコメントを
記したものもあれば、
彼自身が学習してみて生まれた気づきや
感想を記したものなど
いろいろな視点から書かれていました。
というコメントには自分の数学観を見つめることにつながりそうです。
数学を学習するにあたってのごく一部に焦点を当てているものがあるのに対して、数学そのものの本質を考え、究極的には日常であったり社会・世界ということに結びつけています。
その間にはいくつもの階層のあるグラデーションとなっているのではないかと思いました。