似ている言葉に「勉強」と「学習」があります。
2つのちがいをググってみると、ものによって言葉の捉え方がちがいますが、「やる気」「努力」「我慢」「人間以外ができるか」という観点が目につきます。
僕はというと、勉強と学習(「学び」という言葉で使っていますが)ははっきり分かれるものです。
それは好き・嫌いという尺度で、学習(=学び)は好きで勉強は嫌いです。
前に予告編で勉強の場面として学校を出しましたが、学習を先に挙げる方が明確になるかもしれません。
僕が一番最初に学びになったと体感したのが公文式に通っていた小学生の時でした。
公文はプリント学習で1枚に3~5分といったように目標時間が決められています。
その与えられた目安で次に進むか判断できるわけですが、ある時から時間に対する考え方が変わりました。
それは意識するのが目標時間ではなく1回目に取り組んだ時の時間になったのでした。
当時、だいたいが最低でも2回、場所によっては3回やっていました。
ある時から1回目でも十分目標時間内にできるようになってきたのでした。そうなってから自分で意識するようになったことが1回目の時間よりも早くやれるようになることでした。
つまり目標が与えられていたものから自分で立てたものに変化したのでした。
自分で何かを決めて行なうこと、これが僕の中での学習です。逆に言えばそれ以前は勉強にあたるものになります。
そう考えると結局、学校でのことは、授業として受けることになっていて、テスト勉強もテストがあるからやっているという勉強だなと思います。
振り返ってみて僕が学校の中で勉強から学習に脱することができたのは数学の時間に自分の中で生まれた疑問を勝手に考えていたことぐらいだと思います。
それほど学校は勉強が学習に変えることが困難な場ではないかと思います。
かつて学校で教えていた自分がなんてことを言っているんだって思われるかもしれないですね。
学校は今のところ必要不可欠な場ではあると思います。
ですが理由は残念ながら、勉強というものを覚え、そしていずれか外に出てそれまでの勉強とはちがう学習というものが別にあることが将来気づくことができるものとして。
(ただ手段的に脱すればいいわけではもちろんないですよ。今はそういう観念も生まれていそうですね・・・。)
学校は公教育であることから教育において中心に位置しているものだとは思います。
ですがじゃあ最も優れているかというと残念ながらそうは言えないと思います。
そして学校が教育の中心にあるというのは現在の話で、やがて中心に位置しなくなることは大いにあるのではないかと思います。
つまりは匹敵する場、あるいは対等な場ができうるのではないでしょうか。