気分やさんの気ままなブログ

【数学は時に残酷】

 1年近く前にも似たことを投稿していますがもう1度考えてみました。(過去記事はコチラ↓)

itasan-kibunyasan.hatenablog.com

 

 学校で数学の小テストの採点をすることがよくありますが、採点をすると時々思うことがあります。それは○でなければ×をつけるということについてです。

 

 数学のいいところの1つに必ず1つの結論にたどり着くということがあります。(今回は「その結論までに何通りものやり方があるのが~」、というのはおいておきます) 答えが1つしかないということは、目的地がぶれないことや、答えが保障されているという意味でも良さといえるでしょう。

 

 しかしそれが、学校で教える者でありながら僕にはかえって残酷なものでもあると時に思ってしまうのです。最初の通り、○でなければ×なのです。誰しも答える時は○を得ようとしているのであって、自分から×をつけられたいと思って答える人は誰1人としていないでしょう。ところが、採点者は間違っていると×をつけるのです。野球で言えば、敬遠やカウントを整えるボールなどは除き、たとえコントロールが悪いピッチャーでもボールにしようと思ってボールにしているわけではないのと同じことです。さらには、生徒は答えというコミュニケーションを投げているのに、間違っているとそれを無機質な×で返すことになるのです。

 

 それに、仮に間違っていたとしてもその解答はその人にとっては筋の通っているシナリオなのです。それを切り捨てるというのは、鋭く言えば人格を否定するのと同じとも言えるかもしれません。そういう見方からすると、美術の評価は(評価する先生は大変でしょうが)とても受容のあるものでいいなと思います。

 

 ここまで書いて考えついたことですが、数学の問題を解くということは出題者とのコミュニケーションなのかもしれないなと思いました。○というのは解答というコミュニケーションが通じたというレスポンスなのであって、×というのは単なる否定ではなく、これではコミュニケーションは通じないよ、だから正しいコミュニケーションを取り直してちょうだい、というレスポンス、そう捉えると○×も最初よりは意味を持ち温かさを少しは備えているような気がします。