オンラインで初めての(飲み会以外の)イベントといったものに参加しました。これまでに何回か参加したことがある「教師塾」です。
各回でコンテンツが変わるのですが、今回参加した「哲学対話」は初めてでした。
10人で1つの問いを立ててみんなで考え合いました。
今回立てたテーマは、忘れてしまってその時通りの言葉ではないですが「コロナ騒動を受けての”自粛”をどうとらえるか」でした。
「自粛」というのは「自らを粛(つつし)む」という能動的な意味です。それが現実は国・政府からの命令、受動的になってないかという見方からでした。
話し合いで印象に残ったことが5つあったので、それぞれある程度の密度で感想を載せます。
1つ目は、外からの情報を知らないうちにあたかも自分が考えたように自分自身の脳が編集しているかもしれないということです。
一見自分から粛んでいると思いこんでいることも、実は政策やまわりの人の言動によって決めていたものもあるかもしれません。
それを自らに客観的に問いかけることで主体的な判断が鈍らないことにつながり、それが今の生活のあらゆる場面の選択につながるのでしょう。
2つ目は防災の尺度と極めて似ていると思ったことです。これについては以前に書いたのでこちらを見ていただけたらと思います。
itasan-kibunyasan.hatenablog.com
簡単に言うと「自助・共助・公助」の3つです。順に自分・みんなで・国などの政策です。
ただ、「自助」である「自分」が自分一人だけなのか、あるいは家族、それ以上なのかと人によって領域が変わることがあるということが話し合って気づいたことでした。
3つ目は報道されている状況との今回の話し合いのズレです。
ニュースでは政府からの通達で店がやっていなくてどうとか学校が開いてなくて現場が困っているという報道をしています。
ですがこの集まりでは、政策についての批判ではなく、まわりの人とどう折り合いをつけていくかというところで盛り上がってきました。
政策がうんぬんかんぬんという話があまりなかったのです。
このことがまさに1つ目の「自らに客観的に問いかけることで主体的な判断」をすることにつながってくるのではないでしょうか?
4つ目は人の立場を尊重することの大切さです。今回の話し合いは学校で教員をしている大人もいる一方で高校生もいました。
「共助」の部分ですが、それぞれの立場によって大切にする度合いが変わるのです。
教師ならば生徒を守るということが必要になります。
一方で子どもたちにとっては究極的には自分さえよければほかの人は勝手でしょ、とも主張してもおかしいことではないのです。
いろんな立場の人がいるということを念頭に置いたうえで様々な角度から見る必要性を感じました。
そして最後が今の話ともつながるのですが、「ない部分」をいかに見落とさないかということです。
今回の話し合いはこの10人の間でできたものです。例えばここに、安倍首相が入ったらどうだったでしょうか?
きっと今回はあまりされなかった「公助」の話が膨らんだことでしょう。
また、このようなイベントに無関心で参加しないような人もいるわけです。そのような人たちが考えたらどうでしょう?
ニュースの見方にもつながることで、事実・事象をいかに1つの主張に流されずいろんな見方をしてみるかが大切なのではないでしょうか。