気分やさんの気ままなブログ

【『先生はえらい』を読んで(後半)】

f:id:itasan-kibunyasan:20180330225857j:plain

 昨日から内田樹さんの『先生はえらい』を読んだ感想を書いています。昨日の投稿では前半に学ぶことも数学もその人なりに解釈をするから無限のプロセスや結果があるという話をしました。かなり数学に置き換えて考えていましたが日常においても同じで、日々の生活で起こった1つ1つの出来事に対してその人が勝手に解釈をつけて意味づけをして思い込んでいると言えるのでしょう。よって1つの出来事に対しても幾通りもの過程が考えられるわけです。そう捉えてみると結果からだけではどのような過程をたどって来てのものなのかを特定することはできないのではないでしょうか。

 

 それから先生から学び取るということでそのズレが先生へ興味が注がれることになるわけですが、簡単に言えば「訳の分からない先生」に惹かれるということでもあります。これを考えた時に一度紹介したアニメ『キルラキル』の中で出てくる

今わかった、世界は一枚の布ではない。なんだかよくわからないものに溢れているから、この世界は美しい。

というセリフは(本編でもアツい場面なのですが)言葉通りこの世界すべてを表している至言なのかもしれません。そして「なんだかよくわからないもの」というのは今言った先生のことでもあり、生きている中で直面する悩みや葛藤とか気持ちのすれ違いとか、言葉にしようとしても何とも上手く表せないこと・もの全般なのではないでしょうか。

 

 しかしこのように内田さんがズレや思い込みについての話を展開するものですから、能楽の『張良』についての紹介といい本の内容といい鵜呑みにできないというか、どこか内田さんの手の平で踊らされているような感じがしています。

 

 さて、この本を読んだ後に『内田樹による内田樹』という自分の著書についてを改めて振り返るオーディオコメンタリーのような本があり、その中の『先生はえらい』についてが書いてある部分を読みました。そこにはこの本を書いた経緯が書かれていました。教育界の流れが教師批判に向いていた状況から書いたものなのです。しかしそれに対して本のターゲットを問題となっている教師に対して詰問するものでなければ国家や教育評論家でも大人に対してでもなく、中高生でも読めるように書いたのでした。これがすばらしい捉え方だと思います。渦中の教師を救うのに中高生に焦点を当て、先生との向き合い方を説くことを目指しているのです。これは教師に目を向けるのは子どもなのだぞ、ということにもつながるのです。このように問題となっていることに対して焦点を見つけることの大切さを改めて知りました。

 

 それから子どもが持ちうる問い「なぜ勉強しなくちゃいけない」に対しての向き合い方で、将来仕事についてお金を稼ぐためという利益誘導はもたないということを述べていたのですが激しく共感しました。それでは子どもと先生との関係にすれ違いが生じていて結局意見がささらないのです。僕がなぜ勉強が必要かと今だから思っているかというと「学ぶことが楽しいと知るために辛くもある勉強をするのだ」でしょうか。勉強ははっきり言って辛いですよやっぱり。テストで点を取るためにやっているというのが大部分ですし。ですがその辛さや大変さを知らないと「勉強」というやらされているものから「学び」という自分で突き詰めていくものへの自立ができないのではと思うのです。辛い経験をしてきたからこそその枷が外れて学んでいく時に楽しさを味わえるのではないでしょうか。だから将来楽しむために勉強をしてきたのです。しかしこれを勉強真っ只中の学びに自立していない子どもたちに伝えるのはやはり難しいことです。