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【栗山監督が教えてくれた数学の楽しさ】

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 栗山監督著の『未徹在』の中に「答えがないから面白い」という小見出しの話が書かれています。それはどういったエピソードかざっくりというと、とある先発予定の投手が直前に体調不良になって代わりに若手の選手を起用し、それを踏まえて捕手も予定とは変更して起用したら投手は相手を抑えかつ捕手が打撃で試合のヒーローになり勝つことができたという話です。それを通して栗山監督は勝ったという結果について言及しているのではなく、その投手を代役に抜擢したから勝った負けたというのは結果論であって元から正解があったわけではないということ、別の選手を起用していたって勝てていたかもしれないしなんなら当初投げる予定だった選手を使っても別に勝てていたかもしれない、でもそうやって野球に答えがないからどうしたら勝てるか考える楽しさが生まれるのだと述べています。

 これを読んだ時に数学と似ているなと感じたのでした。ちょうど昨日書いたブログのプリントの様子とも似ているなと感じたのです。

 

項数が多いと、かっこの中を先に計算して次にかけ算・割り算を、最後に足し算・引き算を、とセオリー通りのやっていくのはさすがに遠慮したいです。それよりも手間が抑えられるような、むしろやっていて爽快感さえ感じるような「味のある」やり方でやりたいのです。分配法則を利用したり約分の順序や計算の順序を工夫したり時には本来であればまだできないですが共通因数をくくり出したりしています。

 

数学も正解は1つながらやり方には正解はないのだと思ったのです。しかしここまで考えた時にどこかしっくり来なかったのです。そして数学のよさ・楽しさについての決まり文句「正解はただ1つだけどやり方はいろいろある」に疑問を持ったのです。正解は確かにただ1つなんだけど本当に1つなのか?確かに客観的に捉える、丸付けをするにあたって正解である答えはただ1つです。ですが問題を解いている側の立場に立ったらどうでしょうか?僕のことで言えば昨日のプリントの1問目、正解は9/10でしたが1/90としてしまいました。しかし間違えた答えにもこのように出した理由があるのです(約分して残った9を分子にでなく分母においてしまった)。

 

 こうやって考えていってみるとさっきの野球の話と似ていそうと思えてこないでしょうか?数学を解く人の立場に立つと問題の答えは分か把握できず、あるやり方でやってみると答えが求まる、そしてそれが合っていれば試合に勝っただし間違えていれば負けたっていうことなんですよね。そして合っていたからといって別のやり方でも合っていたかもしれないしそれは分からないこと。ましてやその後の話、負け試合だったらどうやって解けば答えにたどり着けたのか、いや勝ち試合でも次やる時はこういう方法でもいいのではないか、と振り返りをしているということに関しては、この本の別の部分で「勝っても負けても次の試合のことを考えている」と言っていてこれまた重なる。さらには、これも書かれていることで、もし野球で必勝法が分かってしまえば考えるということが生まれず「はい、おしまい」。では、経験ある人はぜひ思い出してほしいのですが、数学で答えを丸写ししました、さてどうでしょう?(笑) 数学だって野球と同じで「答えがないから面白い」のです。

 

 この野球の話を通して数学における不正解の時、さらには正解の場合にも満足せず、答えをゴールとせず、途中の過程を振り返ることが数学の楽しさにつながってくると改めて気づかせてくれました。

 

 (備忘録までに)そしてこれはコミュニケーションにも広がっていくのでは・・・?