らくだプリントで今やっているところは割り算の筆算なのですが60問以上の問題数となっています。これを6分強でこなしているのですが、このわずかな時間の中でも解きやすかったり手間がかかる問題、間違えがちな問題などいろんな特性の問題がちりばめられています。
そしていつも問題を解き終わった後にプリントを見返して解いていた時どうだったか思ったことを思い出します。その時に(今まで「らくプリ」として投稿してきたような)算数・数学を超えたようなことを振り返りもするのですが、もちろんこの問題を解いていた時にやりづらかったとかこうやって考えたんだったとかっていうことも思い返します。こうやって振り返るとなんとなくですがプリント1枚のストーリーが自分の中で生まれるのです。
しかしそこで気になったのは、自分はそうだけど果たして他の人もやってみた中でその人なりのストーリーが作られているのか、作られているとしたらどのようなものなのか、ということです。いやもしかしたらストーリーを作り出しているのは自分だけという変態なこともありえるかもしれませんが(笑)
そういえば本を読むということを取り上げても、書き手が主張・表現したいことと読み手が解釈したことにずれがあってほにゃらら、なんて話が公文の国語の教材で扱われていたか何かで読んだことあるし考えてみたこともあったなあ。
しかしらくだプリントと読書のずれの2つについてどういう関係にあるのか気になるところがあります。それはらくだプリントの作り手と本の書き手です。この話の筆者は書き手聞き手の両者の間にずれがある上で内容を考えているでしょう。じゃあらくだプリントの作成者は解き手が思うこととのずれがあると思って作っているものなのか。それともいや、学習教材というものであるからには一人一人が思うことは意図して仕掛けられていることであり、極端に言えば解き手は作成者の手の上で転がされているのか。