日中は暑さがまだ残っていますが、家路についていた陽が傾き出していた時に歩いていると涼しいと感じるようになりました。
地下鉄の中では冷房もついていて寒いとさえ思ってしまい、1枚着るものを持って凝ればよかったと思うほどでした。
まだ街中では浴衣を着ている、祭りに向かうであろう人を見かけるのは変わらないのに。
7月の時もそうでしたが、季節ってこれほど急に変化するものだったかなと疑いたくなってしまいます。季節の変わり目に弱い身としてはまた体調に気を付けなければ。
自動車の免許更新に行ってきました。晴れて免許証に入っている帯が金色になりました。(運転しているとは限らない←)
ゴールド免許になるということで優良者講習はあったものの、前回の時のような長時間の講習はないので1時間程度で終わりました。
優良者講習はあったわけですが、その内容について感心したことが、映像の中に今話題の「あおり運転」に関する話が組み込まれていたことでした。
ある程度の期間ごとに内容を一部見直しているのでしょう。そういえばあおり運転っていつ頃からこんなに大きな話題になるほどになったのでしょうかね?
ちなみに1年半以上の間、前の住所のまま住所変更の申請をしていない状態でしたが、ようやく身分証として若干あった不安要素も修正してきました←
東京に行ってきて、夜からの用事の前に1か所寄ってきたところがありました。それは「みんなのレオ・レオーニ展」です。
レオ・レオーニと言われても誰と思うかもしれませんが、みなさん知っている人です。
小学校の教科書にも載っている「スイミー」や「アレキサンダーとぜんまいねずみ」といった絵本の作家です。
僕も最初は「スイミーの人なんだー」ってぐらいの気持ちで見に行った程度でした。しかしレオーニの生涯を知ると意外な事実がありました。
今でこそスイミーやアレキサンダーとぜんまいねずみなどの絵本作家で有名なのですが、もともとはデザインの仕事をしている人でした。
裕福な家庭に生まれて子どもの頃からヨーロッパでデザインの勉強をしていました。
しかしイタリアの施政によりアメリカに亡命することになり、そこでデザインの仕事をし始めました。雑誌の表紙などのデザインをしていました。
しかしデザインの表現に制約がかけられ描きたいものが描けないということで絵本作家になったと言われています。
そのためデザインの人ということからか、第1作は「あおくんときいろちゃん」という本なのですが、色を人に見立てた抽象的な作品なのです。
また「ペツェッティーノ」も図形が登場人物という作品で、僕も衝撃を受けて展示されていた本を読んでしまいました。
それに絵本の原画が展示されていましたが、絵を描くのに張り絵などさまざまな描かれ方がされているのです。
また、先ほど紹介した生涯にあったように政治的圧力を受けていた人なので、人種や多様性に関した絵本が多いのです。というよりおそらくすべてなのではないでしょうか。
「あおくんときいろちゃん」では2人(?)が混ざるとみどり色になるということが話の中に出てきます。
それにスイミーでもいろいろな生き物が登場しますし、ここで見つけたお気に入りの絵本「コーネリアス」はワニがサルから木にぶら下がることを学びます。
そういった部分が教科書の教材として採用されているところではないでしょうか。
一方で思ったことが、目の描かれ方です。こういう目ってなんかなじみないですか?基本的な丸い目でいうと、このデザインの目のシールがあるのです。
それと大きな話題を起こしたアニメ「けものフレンズ」に出てくる生命体で「セルリアン」というのがいます。
知っている人はそれが印象に残るかと思うのですが、その要因は目にあるのではないでしょうか?
また、うすら閉じしたような目も何か見覚えがないでしょうか?
そう、ガチャピンの目に似ているのです。
レオーニの目の描き方は強く印象に残るようなもののような気がしました。
それと、キャラクターが怒ったとしてもレオーニの絵には怒った表情がなかったことに気がつきました。
そしてこれは疑問なのですが、それはなぜねずみが登場する話が多いのかということです。
「アレキサンダーとぜんまいねずみ」だけでなく「フレデリック」「みどりのしっぽのねずみ」などいくつかあるのです。
レオーニは裕福な家に生まれたり、亡命したとはいえデザインの仕事をしていたりとねずみと縁のある生活を送っていたとは思えないわけです。
レオーニにとってねずみとはどのような生き物なのだろうかと気になっています。
これまでは「スイミー」の話の内容ぐらいしか知りませんでしたが、大人になって作者の生涯を知ったうえで読み直してみるととこれまでとはまた違った味わい方ができますね。
当初は2週間前に見に行く予定だったのですが、ようやく話題となっている「天気の子」を見てくることができました。
見る前から賛否両論ということは知っていました。実際見てみてこれは分かれると納得しました。
というより賛否両論ができて当たり前なストーリー構成なのでしょう。なぜならば極端に対極的なものが入り混じっているからです。
一番わかりやすいのは、「大人である」かどうかです。初見ながらにやけに陽菜の「大人になりたい」という簡素なセリフが心に残りました。
その一方で須賀圭介が「おまえも大人になれよ」というセリフがあります。
大人になろうと思っていない穂高、大人になりたい陽菜、大人になる渦中の須賀夏美、大人であろうとするけど…の須賀圭介、典型的な大人として描写されている刑事や鉄道会社の人など。
この作品は「大人になる」とはどういうことかの見る人の価値観、「大人になりきれていない人」をどう思うかによって感想が大きく変わるように思いました。
どうやらインタビューで新海監督は賛否分かれることを承知の上だったようですし。
そんなわけで、人によって大人になるという見方は異なる、ということを頭に入れた上で見ました。
そこの部分で評価するというのは、数学で2人の子どもが池のまわりを歩き始めるのにいちゃもんをつけるようなものなんじゃないか、それが新海誠なのだという解釈で十分なわけです。
それから対比の話の続きで、東京という都会を選択したことも、穂高が出てきた島、それだけでなく前作「君の名は。」の山の中との対比があるのではないでしょうか。
そして、雨と晴れなわけでもあります。
ただ、大人ということが核になっているがゆえに難しかったことなのではないかというのが、話の終え方でした。ちょっと中途半端に終わったというか。
いっそのこと、会えた!降りてこられた!東京の街の様子、雨がザー。ぐらいで終わった方がスッキリしたのではと今では思います。
きっと伝えたい部分がまだあったからなんだろうなぁ。
映像については、作品の題材が天気というわけで雨の雫の描写が特徴的でしたが、見ていて不思議と思い出したのは「崖の上のポニョ」と最近やっていた「君と波にのれたら」でした。
最初からあの描写を見たらちょっと気持ち悪く思っていたかもしれないけど、耐性っていうと語弊があるけど受け入れられるようになっていたのかもしれません。
ちなみに「天気の子」がいいと思える人は、それと恋愛要素と人の命についての折り合いができれば「君と波にのれたら」もオススメしておきます。
誰からしても称賛をされる部分なのではないかと思ったところがありました。それは劇中の効果音です。最後のクレジットで誰が音響監督を務めていたのかと追ったほどでした。
セリフや音楽に引けを取らないような強さはあるのですが、尖ってはいない絶妙なバランスに感じました。それに必要以上には複雑にしていないクリアさ。
調べてみたら「君の名は。」でも担当していたみたいですが、それをはるかに超えたクオリティに思えます。
何よりも「君の名は。」に比べるとストーリー自体は分かりやすくなっていていたというふうに思いました。
こういったところにも大人ということが無意識で見方に影響を与えていそうでした。
僕としてはこういうできすぎた話も好きなので、けっこう楽しめました。
算数・数学のプリント「らくだプリント」を毎日取り組んでいます。らくだプリントについては久しぶりの投稿ですが、最近はずっと同じところをやっています。
それは3ケタ×1ケタのかけ算の筆算です。8月1日からずっとこのプリントをやり続けています。
今までは同じプリントを1週間やり続けることにしていました。しかしこのプリントを1週間やってみて感じたことは、思うようにできなかったことです。
日ごとにミスの数やかかる時間のバラつきのような結果として見えるもの、それにやっていての手ごたえにもバラつきが大きかったのです。
そのような状態の時、寺子屋塾で井上先生からこのような感じのことを問われました。
「バラつきがどうして生まれているのでしょうか?」
確かに手ごたえや出来具合にバラつきがありました。しかしそれはすでに現れてからの認識にすぎません。
バラつきが生まれる瞬間のこと、根本である本質が見れていないのではないかと考えるきっかけとなったのでした。
その時に聞いた話ですが例えばこんなことです。人は風邪をひいたときなどに熱を発します。そのような時にどうするか、薬などでいつも熱を下げればいいのかということです。
それを正しく判断するためには発熱をすることの本質を理解する必要があるわけです。
いくつか要因はあるのですが、単純に風邪をひいた時などの発熱というのは低下している体の免疫力を高めるための現象というわけです。
それを踏まえて発熱の対処を考えると、ある程度は下げずに熱を上げさせておくことが適切なこともあるわけです。
それと同じように自分がバラつきを感じることの本質が何かを、やっている時のことを振り返ってみました。
すると計算結果に迷いが残っているまま答えを書いて、でも違っているから書き直す、それが積み重なって、しかもやる度に違うところで生じるからバラつきがあると感じているのではないかと、あくまでも仮説ですが、立ったのです。
そして次の日から計算を完全に求めきってから答えを書くということに徹してやってみました。
1回目は前日までより時間はかかりながらもミスなくやれてバラつきを感じずにやることができました。
そして、その日以降もミスは1つもせずにやれて、時間も次第に早くなりながらも何日かやったところでほぼ一定に安定したのでした。
振り返る時には上っ面だけを見ていないか、その本質は何かと深く考えることが大切だと改めて思いました。
昨日までが暦としてのお盆でしたが、12日から昨日までの4日間出かけずに家にいっぱなしでした。
というのも足のケガのため長時間立ち歩いていると痛みが少ししてくる上に時期的に人が多いのでというのがあってでした。どのみち昨日一昨日は台風でしたし。
そして、今日はお盆明けで足のリハビリに行ってきました。ところが足をマッサージしてもらったり動かしてみて何かがおかしい・・・。
足の太ももだったりつま先だったり、ケガした足首の部分でない箇所に今までとは違う変な感じがあったのでした。
看護師に確認してもそうでしょうと言われたのですが、そう、足の筋肉を使わなさすぎていたという運動不足だったわけです。
実際に、その後に用事や寄るところがあって久しぶりに長い時間歩いたのですが、ケガした部分でないところ、それこそ太ももやケガしていない左足が疲れたのでした。
筋肉って使わないとすぐ弱るものなんですね・・・。これからは出かける予定が多いので大丈夫だろうけど。
ツイッターで、ツイッターと連携して利用されている「質問箱」というものをよく見かけます。これは匿名でほかの人から質問を募集してそれに答えるというものです。
僕自身は質問箱をやったことがないのですが、少し前にこのようなことがありました。このブログの投稿に対して匿名でコメントが書かれていたのでした。
コメントをいただいたこと自体はうれしかったです。ただそのコメントの内容が問いであり、答え方が難しかったのです。
言葉をうまく選ばないと煽ったと思われかねない、そもそもこの質問自体にその人の考え方がだいぶ溶け込んでいるように思える。
だから答える前に相手の考え方を引き出して確認しておきたい、けど1投稿のコメント欄じゃやり取りが帰ってくることはあまり望めない。
そもそもこのブログが知人からしか見れないような状態になっているし、匿名じゃなくて誰か分かればその人を想定してその人に合ったコメントが返せるのに。
(最後の方はだいぶインタビューゲームに毒されているからこそ思ったことでしょう(笑) )
こんなことを思いながら最終的には誰が見ても当たりざわりのないような文章を心がけて答えました。ただ、やはりもっと詳しく答えてみたかったなという思いがありました。
たった1つの簡潔な質問だったのですが匿名なだけでこんなにも悩んだのでした。
このような経験もあって思うことが、最初に紹介したツイッターでの質問箱をやっている人ってよく匿名からの質問に答えられるなぁということです。
たとえ僕がやってみて質問がきたとしても悩んでしまってかなり時間を費やしてしまうことでしょう(笑)
あと、匿名だからこそ答えられることってあるのだろうかと思ってしまいます。
関係性によって答えられることと答えたくないことがあるものですが、匿名というと関係性によるものは無条件に答えられなくなってしまうのではないでしょうか。
ただ匿名だからこその言葉選びはあるかもしれないですね。
とはいえ、もちろん質問箱のよさはあるとは思っています。
そのようなものがあるからこそほかの人は気軽に質問してみようとなるわけで、(匿名ながら)疎遠になっていようがコミュニケーションをとれている感じもあるでしょう。
つまりは質より量を重視したツールということですね。
僕はおそらく、その人に合った、誤解を生じない、質の良いことを答えたいと思っているのでしょうね。
先日、大学の同期の結婚式の二次会に参加しました。
大学時代に生協学生委員会に入っていましたが、同期の結婚相手も委員会の後輩なのでどちらのことも関係性を含めて大学時代から知っていました。
ただ、そもそも招待されるようなことが初めてでどのようなものを着て行けばいいかから悩んだという始まりでした。
ですが委員会の身内が半分以上だったということもあり、行ってみたら気にすることもなくなりました。
会のはじまりのあいさつでも彼が言っていたように、大学時代の同窓会のようになりました。自分たちの代は卒業してから会うことが数回しかないほどなので特にだったでしょう。
それに先輩・後輩とも交流したり。
同期が結婚していき出すということで何とも言えない気持ちがしつつも、幸せなカップルによって生まれたステキな会だなと思えました。末永く幸せとなることでしょう。
それと、パーティー会場みたいな微妙な明るさの場所での一眼レフの設定、シャッター速度と明るさの調整が難しい・・・。
一眼レフを持ったからか、ふと思ったことが、もし自分が2人いたらどんな写真が撮れるのだろうという疑問でした。
ほかの人がどうなのかは分からないですが、僕は写真を撮られる時にはポーズをどうしようかとか表情が硬くないかとか考えてしまいます。
一方で一眼レフを持ち撮り手にもなって、撮る側としては構図や背景とのバランスや色合いなどを考えることも知りました。
このように撮る側撮られる側の双方に考えていることがあるわけです。
そう考えるとインタビューゲームと同じように言えば写真というものは共同作品とも言えるのかもしれません。
じゃあ撮る側も撮られる側も考えていることを完全に共有できたら、早いところどちらも同じ価値観を持つ自分同士だったらどのように写真を撮るようになるのだろうかと思ったのです。
そういえば3・4年ほど前に同志社女子大学へ上田信行先生のゼミ見学に行った時に「セルフポートレーション」というものをやったのを思い出しました。
自分でリモコンを持った上で好きなポーズをして自分のタイミングで写真を撮るというものでした。
でも自分が好きな撮り方は、はいチーズと向かせるのも撮りはしますが、それよりも自然な様子を撮る方が好きで、
そう考えると2人いても撮られる側の自分は警戒心が強くなって、撮りたい自然な写真が撮れないのでは←
京都アニメーションの放火事件からもうすぐ1か月が経とうとしています。最近はもうテレビニュースで取り扱われてはいないのではないでしょうか。
ただ、事件後にいくつかの企業・団体、それから京都アニメーション自体も寄付金を募ることになりました。
そして僕も遅ればせながらようやく寄付しました。1万円寄付しました。
1週間以上前の情報で10億円は集まっているという情報もあり、国内のみならず海外でも多額の寄付金が集まっているようです。
改めて京都アニメーションの作品が世界に認められ愛されているのだと思えました。
そういえば甲子園で京都代表の立命館大学宇治高校、明日2回戦ですが応援歌に京アニの作品「響け!ユーフォニアム」の主題歌「DREAM SOLISTER」を演奏するとのこと。
事件があった後に地域から高校へ何かできることがないだろうかという打診があって考案されたものです。
もしよかったらちょっと気にかけてみてください。